ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

雑誌『五行歌』2019年3月号 お気に入り五行歌

 こんばんは、ひげっちです。
 
 どんどん投稿頻度が遅くなっていますが、今さらながら雑誌『五行歌』2019年3月号のお気に入り作品を紹介させていただきます。
 
 
 
クジラが
プランクトンを
吸うように
人を馬鹿にして
生きている
 
山崎 光
14p.
 
 一読して、すっかり惚れ込んでしまったお歌。まず、自分自身への平静でシニカルな批評眼が感じられるところがいい。次に、クジラの比喩が実に効果的だ。後半二行は割と過激なことを詠っているのだが、クジラの持つ雄大さやスケールの大きさといったイメージのおかげで、その表現があまり嫌味に感じられないところが巧み。クジラのような存在になら馬鹿にされるのも仕方ないかな、と許容してしまいそうになる。クジラがプランクトンを摂取するときは異物や海水ごといっぺんに呑み込む。作者は人を馬鹿にしていると言いながら、人の良いとこ悪いとこを丸ごと呑み込んで、自らの成長の糧にしてしまうのではないか。
 
 
 
謙虚に生きよう
と 決めたのに
酒を飲めば
いつのまにか
自慢話

 

鮫島龍三郎
20p.
 
 謙虚を心掛けてもなかなか上手くいかない、この人間らしさがいい。自分で自慢話をしているという自覚がある方はそれだけで充分謙虚な部類に入る気もするが、作者はきっと自分自身に厳しいお方なのだろう。酒の席では失敗談の方がウケるし、聞いている人との距離も縮まるとは思うが、私自身は割と自慢話をするのも聞くのも嫌いではない。会う度に毎回同じ自慢話を繰り返されたら、さすがに辟易するだろうが、世の中には色々と凄い人がゴロゴロいるので、「私のここがこんなに凄いんです」という話は、むしろ進んで聞きたい。
 
 
 
今日を 蹴り上げろ
明日を でっち上げろ
生きたけりゃ
常識なんかじゃ
もう 駄目なんだよ

 

 都築直美
46p.
 
 自分自身に喝を入れているような、力強いお歌。ヒリヒリとした切実さとエネルギーを感じるところがいい。作者にとっての生とは、常識に頼ることの出来ない、生やさしくはないものなのだろう。それでも作者は今日という現実に蹴りを入れられるだけの勇気と脚力を持っているし、明日という未来をでっち上げることができるだけの才覚と空想力がある。常識からはみ出すことにはリスクも付きまとう。作者の賭けが成功すること願う。
 
 
 
人生では底辺
けれども
五行歌では
少し上を
目ざしたい

 

 MOBU
57p.
 
 一行目の現状認識が潔いほどシビアで、清々しくさえある。私自身も五行歌を書き始めたときは本気で「今は人生のドン底で、何処にも出口が無い」と感じ、何かに縋るような思いで歌を書いていたことを思い出した。目ざしたいのが「少し上」というところがいじらしくていいと思うが、どうせなら何処までも上を目ざして欲しい。そういう人がたくさん居るほど、未来が明るく、楽しくなると思う。
 
 
 
自分が
だれよりも
苦しい
という錯覚に
恥じ入る

 

 柳沢由美子
77p.
 
 人が陥りやすい錯覚を的確に捉えている。誰しもが身に覚えがあることだろう。苦しいときほど、視野が狭くなり、自分の苦しさばかりが大きく感じられ、他人の苦しみには無頓着になってしまう。だが、ある意味それは自然なことでもある。誰だって自分の苦しみこそが一番リアルに生々しく感じられるからだ。遠い国で戦争や飢餓に苦しむ人のことを慮るのはもちろん大事だが、それよりも「自分は仕事が出来ない」という身近な苦しみの方が遙かに切実な面もあるだろう。それでも作者は、自分がだれよりも苦しいのは錯覚であると言い切り、それを恥じ入るのである。その清廉で生真面目な感性に惹かれた。
 
 
 
思うな
考えるな
動くな
只管打坐
思ったようになる

 

 那田尚史
147p.
 
 とても好きなのだが、評をしようとすると、なかなか一筋縄ではいかないお歌。思うことも、考えることも、動くことさえ放棄して、ひたすら一つのことに打ち込めば、思った通りになるという。雑念、邪念を払うことの大切さを歌っているのだとは思うが、一行目で「思うな」と言っておきながら、五行目で「思ったようになる」と言われると、「思わなかったら、思ったようになりようがない」などとツッコミたくなってしまう。おそらくは一行目の「思うな」は、正確には「余計なことを思うな」ということなのだと思う。集中することの大事さを教えてくれるお歌だと思う。
 
 
 
嫌いを遠ざけ
好きばかりを追いかけ
糖度の高い
未来に
朽ちてゆく

 

 甘雨
184p.
 
 後ろ三行の表現に特に惹かれた。どことなく、好きなことを仕事にした(あるいはしようとしている)夢追い人についてのお歌なのかと感じた。自分の得意なこと、好きなことだけして生きてゆくのはとても夢のあることだが、本当にそうやって生きている人はめったにいない。誰だって生活のためには、ある程度、嫌いなこと、やりたくないことをやって生きている。意外とそういう時間こそが、好きなことに向き合える時間の大切さを教えてくれたり、得意なことをもっと研ぎ澄ますためのモチベーションを与えてくれるのかもしれない。「本当に好きなことだけしかやらない」というのは、ある意味、不健康であり、毒でもあるのだろう。
 
 
 
誰だって
スナフキンになりたくて
なりきれないまま
去ってゆく

 

 王生令子
221p.
 
 面白いお歌。前述のお歌とちょっと似通ったところがあるかもしれない。確かに私も子供の頃スナフキンのような生き方に憧れた。風のようにやってきて、憂いを帯びた表情で、楽器を弾いて歌なんぞ歌い、また風のように去っていく。男女問わずカッコいいと思い、「あんなふうに自由気ままに生きてみたい」と憧れてしまうだろう。だが、多くの場合、その憧れを実現するには困難がつきまとう。そうして、巷には「中途半端なスナフキンもどき」が溢れることになる。それが良いことなのか、悪いことなのか、その価値判断までは言及されていない点もこの歌のいいところだと思う。
 
 
 
オリンピック?
興味ないよ
俺、出ないから・・・
こんなおじさんにこそ
メダルを贈りたい

 

 庄田雄二
264p.
 
 言われてみれば確かに、と思わされたお歌。もう来年に迫った東京五輪ではあるが、オリンピック選手ではない限り、所詮は「他人の祭り」なのである。もちろん、ボランティアや観戦という形で参加するのも素晴らしいことと思うが、それよりもお祭り騒ぎに浮かれずに自分自身のやるべきことをしっかり見極めなきゃ駄目だと、このおじさんは思っているのではないか。ちょっと褒めすぎかもしれないが、そう思った。
 
 
 
何拾い
何捨ててきた
右の手よ
握手ができる
友が残りし

 

 鈴木 滋
292p.
 
 たまに見かける、「短歌になっている五行歌」。純粋に短歌として読んでも好きなお歌だ。五行に分けたときの、改行と呼吸もよくマッチしており、五行で見るとさらに良さが際立つような作りになっているように感じる。それなりに人生経験を重ねてこられた方のお歌だと推測する。おそらく作者の利き手である右手にとって、今残っているものが友というのがたまらなくいい。平素で無駄のない表現ながら、想いが充分すぎるくらい伝わってくるところも凄い。
 
 
 
白菜を漬けた
重石は
広辞苑、百科事典、聖書
仕上がりは
哲学の味

 

 中込加代子
314p.
 
 漬け物石の代わりに分厚い本を使ってしまうという意外性が面白い。実景だとしたら、なかなか豪気な性格の持ち主だと思う。特に聖書を漬け物石代わりに使うのはなかなか勇気がいる気がするのだが・・・。四、五行目の結びも見事。こんなふうに詠われたら、ちょっと味見してみたくなる。
 
 
 
 
お別れは賑やかに
やけに明るい一群も
やがて
無言で帰る
丸い背(せな)

 

 中村幸江
332p.
 
 お葬式かお通夜の一幕を詠ったお歌だと読ませていただいた。賑やかで明るい一群が、単にそういう気質の方々なのか、故人のことを偲んで意識的にそう振る舞っているのかまでは読み取れないが、そうした方々も帰り道には皆黙って帰っていく、という描写がいい。帰る方々の背中を見送っているのだから、作者は故人の身内ということだろうか。しんみりと心に沁みる秀歌だと思う。
 
 
 
ぷっ と
ふくれて
ふにゃ ふにゃ に
おあとは
あなたしだいよ

 

 ゆらら
338p.
 
 実験的で楽しいお歌。前三行が何のことを指しているのか、色々と想像が膨らむ。作者自身がふくれっ面で怒ったあとに、何かがあって、脱力状態になったのだろうか。あるいは、季節柄(3月号の投稿時期は1月)お正月のお餅を焼いている時の描写かもしれない。後ろ二行が思わせぶりでちょっとエロい感じがするのもまたいい。
 
 
 
(了)