ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

雑誌『五行歌』2020年8月号 お気に入り五行歌

 どうも、ひげっちです。

 

 すっかり間が空いてしまいました。コロナ禍&無職でいくらでも時間はあったはずなのですが、遊びほうけていました。前回の更新以降、スマホが壊れて買い替えたり、ワクチン2回打って副反応に悶えたりしていました。

 

 一年以上前のお歌達ですが、名作揃いです。どうかお付き合い下さい。

 

黒澤映画を見ると

昔は本物の大人が

いたなあと思う

今は大人の顔をした

子供ばかりだ

 

杉本浩平

5p.

 「大人の顔をした子供」の自覚がある私としては耳が痛いお歌。黒澤映画は代表作を何本か見た程度だが、彼の登場人物たちに在って、今の現代人に無いものとは何であろうか?私は一言で言うなら、「覚悟」だと思う。危機に瀕した際、我が身を犠牲にして、次代を生かそうとする姿勢。そういった覚悟が現代人には足りない気がする。しかしそれは裏を返せば、現代がそういった覚悟を持つ必要の無い、平和な時代であることの証左とも言えるだろう。今の平和が脅かされた時、現代人の持つ本当の顔が見えるのかもしれない。

 

 

 

母が息絶えた夜

こんなに悲しいのに

腹が減る

みんな泣きながら

おにぎりを食う

 

鮫島龍三郎

7p.

 どんな時でも腹は減る。最愛の人を亡くしたその日でも、お腹は空くのだ。生きていくことのある種の「しぶとさ」「みっともなさ」がよく表されている。みんなで食べるのがおにぎりというところもいい。ここは、お寿司でもサンドイッチでもダメだ。生活感と日常性を感じさせるおにぎりでなくては成り立たない。残された者たちの人生はこれからも続いてゆく。力強い生命賛歌のお歌だと思う。

 

 

 

 

真の

団らんのない

家に

三つの

 

紗みどり

12p

 3人のご家族が暮らしている家のことを詠んだお歌だろうか。家庭に真の団らんはないと言い切り、ご家族のことを「個」というどこか突き放した感じで表現されているところが魅力だと感じた。「真の団らん」がないという表現は、逆説的に「偽りの団らん」が存在していることが窺える。つまり、ご家族3人の仲は言い争いの絶えない状態と言うより、むしろ少なくとも表面上は仲良く暮らしているのではないかと推察できる。しかし、救いがないのは作者がそれを「真の団らんではない」と認識している点だ。ご家族の間に何があったのかは知る由もないが、現状を書き切る姿勢に迫力を感じたお歌だった。

 

 

 

 

書物にもぐり込んでいて

ことばまみれの私が

白昼の巷を

よろめきながら

歩いていく

 

柳瀬丈子

48p.

 作者が読書に夢中になるあまり、どこか頭でっかちになってしまい、一時的に現実の世界に上手くフィットできない感覚に陥っているように読んだ。その状態を表す言葉として、2行目の「ことばまみれ」が実に巧く、効いている。後半3行も、眩しすぎる昼間の街の、どこかクラクラする感じが表われていて好みだった。

 

 

 

 

93歳の母のもとに

90歳の叔母のお見舞い

手を取り合って

顔のシミの話をしている

え!? そこ? シミの話?

 

倉本美穂子

52p.

 ご高齢の母と叔母。2行目にお見舞いとあるので、おそらく母は入院されているか、少なくとも体調を崩されているのだと推察できる。お見舞いにやってきた叔母と母が手を取り合って話をしており、その話題が顔のシミの話であるという。この意表を突かれるリアリティにやられた。5行目に作者自らがツッコミを入れていることもあり、読者は可笑しく感じてしまいつつも、笑うのが若干不謹慎に感じられてしまう。絶妙な感情を呼び起こす、珍しいタイプのお歌だ。

 

 

 

 

別れ際に

そんなこと言うから

ここで

傘の滴を

見送っている

 

紫野 惠

135p.

 別れ際の相手の一言に呆然としてしまい、立ち尽くしてしまっているのだろうか。どんな一言だったのかが非常に気になる、思わせぶりな書き方で魅力を感じる。4、5行目の表現も好きだ。雨中の光景であることがさりげなく描写され、読者の想像力を掻き立てる。

 

 

 

 

裏返しで

生きている

そんな気がする時がある

何の裏返しか

忘れてしまったが

 

甲斐原 梢

143p.

 作者がときおり感じる「生」に対する違和感を的確に、軽妙に表現されている。洋服を裏返しで着るように、裏返しで生きているような気分になる時があり、しかも、それは何の裏返しかも忘れてしまった、という。元々は「裏返しでない」=「表向き」の生き方があったが、現在はその「表向き」とは真逆の生き方をしているような気がする、しかも、元の「表向き」の生き方もどんなものか忘れてしまった、といった解釈することが出来るだろうか。こうして書くとずいぶん救いのない状況だと感じるが、それでもこのお歌には、「自分も同じかもしれない」と感じさせる力があるように思う。

 

 

 

 

立った言っては喜び

歩いたと言っては

喜んだのに

いつか他の子と

比べ始め

 

憂慧

167p.

 子供が生まれたばかりの頃はささやかな成長を感動しながら喜んでいたのに、大きくなるにつれて「言葉が早い/遅い」「自転車に乗れる/乗れない」「勉強ができる/できない」などといった点を他の子供と比べてしまう親の残酷な性(さが)と、比べられる側の子供の辛さの両方を代弁してくれているようなお歌。ここからは親になったことのない私の想像でしかないのだが、親という生き物は、子供に対しての「存在そのものの肯定」はベースとして持ちつつ、自分の子を社会の中で一人前に育てないといけないという責任感から、子供が成長するに伴って、他の子と比べて優れている所/劣っている所がないかについて、一喜一憂するようになるものなのではないか。子の出来/不出来は親の自尊心に直結しやすいため、前述の「存在そのものの肯定」がたまに疎かになり、「優れていなければ存在を肯定されない」子供もたまに散見されるように感じる。迷ったときに原点に立ち返るのは大事。親子関係に悩む方々にヒントをくれるお歌ではないだろうか。

 

 

 

 

初給料を

在宅勤務で

いただく

孫のふくざつな

笑顔

 

木村斐紗子

198p.

 とても現代的なお歌。新型コロナウイルス感染拡大のため、大学を卒業して新社会人になってもほとんどオフィスには出勤せず、もっぱらテレワークで仕事を教わる新入社員もいると聞く。このお孫さんも同じような状況らしく、在宅勤務がメインのまま、初めてのお給料をいただいたという。嬉しく、誇らしくもあるが、どこか不完全燃焼であるような複雑な気持ちを4、5行目が上手く表現していると感じる。

 

 

 

 

乳児の目の

光る

湖に

漂う

安心

 

小原淳子

209p.

 不思議な雰囲気のあるお歌。5行全部に無駄がなく、効果的なことがまず好印象。前半3行の「乳児の目に光る湖」という表現に惹かれる。乳児は成人に比べて身体に水分が多く、その目も潤みがちでキラキラしていることが多い印象がある。そういった乳児の目、あるいはそこに溜まっている涙を「湖」に喩えたところが面白い。涙がしょっぱいことや、生命の起源は海であることなどから、この場合「海」に喩えた方が読む方の納得感は増す気もするが、その分既視感のある歌になってしまっていたのではないか。後半2行のまとめ方も好きだ。人間が子をなし、命のリレーが続いていくことへの温かい安心感のようなものが感じられる。

 

 

 

 

まるで

賽の河原の鬼のようだ

消毒のため

子らのレゴブロック作品を

バラバラにする

 

仁田澄子

214p.

 コロナ禍でお子さんを感染させまいと奮闘している作者の様子が窺える。お子さんが作ったレゴブロックの作品を消毒のため、バラバラにするという。念入りな消毒のためにはやむを得ない行為だとわかっているものの、せっかくのお子さんの作品を解体してしまうのには、罪悪感が伴うのだろう。そこで自らのことを、子供が石積みをするとそれを壊すという、賽の河原の鬼になぞらえている。この比喩がとても魅力的だと感じた。ただ、賽の河原の鬼は子供を苦しめるために石積みを壊しているが、この作者はお子さんの安全のためを思ってブロックを壊し、消毒している。行為の外見は似ているかもしれないが、目的は大きく異なる。作者には、「こんなに子供想いの鬼はいませんよ」と言ってあげたくなる。

 

 

 

 

そんなもの

ぼったくりバーに

並んでいる

 

いわさきくらげ

266p.

 面白いお歌だ。「愛」=「ぼったくりバーの瓶」だと、このお歌は主張する。ぼったくりバーというのは、サービスに見合わない高額な代金を請求される飲食店のことを指す。そこに並んでいる瓶、というのは2通りの解釈が出来そうだ。ひとつは、お客に普通に提供するためにカウンターなどに並んでいるお酒の瓶という解釈。もうひとつは、常連客がボトルキープしているお酒の瓶という解釈。どちらの解釈でも、「愛とは、それに見合わない対価を払わないと飲ましてもらえないお酒のようなもの」という作者の世界観が読み取れるところが好きだ。愛に対する不信感・警戒感を隠さない。愛を「そんなものどこにもない」と全否定するのではなく、「あるところにはあるけど、あえて自分で手に入れようと思わない」という作者の姿勢はとても誠実だと思う。

 

 

 

 

大黒摩季

「夏が来る」を

聞きながら

のりのりでつくる

かぼちゃの煮物

 

加藤温子

272p.

 歌手の大黒摩季さんは、世代ど真ん中なのでいくつかの楽曲はサビだけならソラで口ずさめるくらいには聴いてきた。代表曲「夏が来る」は夏の到来を心待ちにする女子の気持ちを歌った名曲なのだが、その曲を聞きながらのりのりで「かぼちゃの煮物」をつくっているという。楽曲の持つワクワク感のあるイメージと煮物という生活感のある言葉のギャップ、そして、大黒摩季という絶妙に懐メロになりつつある世代の歌手の組み合わせにグッときた。なんとなくではあるが、こうしてつくられたかぼちゃの煮物はとても美味しそうに思える。

 

 

 

 

きつく

しかられるより

だまって

ゆるされたほうが

ききます

 

村橋ひとみ

290p.

 真理を突いている類いのお歌。全部ひらがなで書かれているのも、この場合、小さい子供に言い聞かせているような雰囲気も感じられ、効果的だと思う。悪いことをして、きつく叱られるのは誰でもイヤなことだ。だが、悪いことをしたはずなのに、どこが悪かったのか指摘を受けず、何も言われずに許されたほうがしんどい、とこのお歌は主張する。おそらくは、作者は自分が悪いことをした時、怒られないと逆に居心地の悪さを感じるタイプなのだろう。確かに、そういったケースもあるとは思うが、世の中には意外と「悪いことをしているのに、自分ではそれが悪いと思っていない」というタイプも居る気がするので、そうした方々にはこのお歌のような心情は当てはまらないのかもしれないとも思った。

 

 

忘れたいこと

忘れたくないこと

ウイルスは

私のそばで

遊んでる

 

田村深雪

293p.

 コロナ禍を詠ったお歌は本誌に溢れているが、このお歌は独特の手触りを感じて好みだった。ウイルスを小さな家族やペットのように描写している後半3行がどこか達観したような味わいがあって魅力的だ。社会も世界も目に見えない小さなウイルスに一喜一憂し、踊らされている中で、作者の動じない、腹の据わり具合には憧れる。心や魂は、危機に瀕した時にその性質が明らかになるものだと思う。作者のような境地までいつか辿り着きたいなと感じる。

 

 

(了)