ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

雑誌『五行歌』2019年12月号 お気に入り五行歌

 どうも、ひげっちです。
 
 あまりブログでは弱音を吐きたくないのですが(Twitterではしょっちゅう吐いてる)、ここのところ、ひげっちはあまりメンタルの調子が良くありません。とは言うものの、深刻に心配していただくほどのものではなく、ご飯もバクバク食べてますし、夜もぐっすり寝てます。ただ、仕事はしばらくお休みすることになったので、日中はもっぱら読書と散歩と書きものをしています。ある意味、一足早い余生みたいな、夢のような日々を過しております。これに慣れてしまうことが一番怖いので、早く元気になって社会復帰したいです。
 
 雑誌『五行歌』2019年12月号のお気に入り作品を紹介させていただきます。
 
 
 
トライが決まる
日本勝利
明日から変われる と
たくさんの人が
そう思った
 
玉虫
11p.
 
 記憶にも新しい、昨年日本で開催されたラグビーワールドカップのことを詠んだお歌だろう。様々な人種的背景を持つ選手たちが「ワンチーム」として闘う姿に熱狂した方も多かったと思われる。日本代表の勝利に感銘を受け、明日から自分も変われる、変わるんだと決意した方も多数いたのかもしれない。と、それだけでも充分に良い歌なのだが、おそらくこのお歌は単純な「日本万歳」のお歌ではないように感じる。ポイントは四、五行目のどこか冷めている、他人事のような視点。まるでこの後に「が、しかし・・・」という六行目が続きそうな余韻さえ残す。一時期のお祭り騒ぎでは、日本の抱える閉塞感は振り払えないという諦観が含まれているように感じ、そこがとてもこのお歌を魅力的にしていると思った。
 
 
 
来世は
だんご虫に
なって
じっと
していたい
 
河田日出子
69p.
 
 こういう気持ちになるときは往々にしてある。まず、シンプルにとても共感した。「来世に生まれ変わるなら何が良いか?」というアンケートがあったとして、疲れているときは、なるべく何も考えなくて済みそうな生き物を選択したくなる。海洋生物ならクラゲ、節足動物ならだんご虫、植物ならタンポポの綿毛なんかが上位に入ってくる。やや脱線したので話を戻すと、作者にとって今世は「じっとしていなかった」ものであり、それによって心身ともに疲れてしまい、思わず書いてしまったお歌のように感じられた。一時的な気分の落ち込みであればよいが、作者ほどの方の来世が一介の節足動物というのでは、いささか魂の無駄遣いであるような気もする。私もすぐネガティブになるのは他人のことを言えないので、「来世も人間に生まれたい」と胸を張って言えるような生き方をしていきたい。まあ、そもそも輪廻転生が本人の願望を聞き入れてもらえるシステムである保証はないのだけれど。
 
 
 
殺意
殺人
二つの間に
物を置け
いいものをおけ
 
山川 進
82p.
 
 当たり前のことながら、殺意を抱いた人が皆、殺人を実行するわけではない。なので、殺意と殺人の間には、近いようで大きな隔たりがある、と思いたい。このお歌ではその二つの間に「いいものをおけ」と詠われている。果たして「いいもの」とは何か。例えば自分が衝動的に殺意を抱いてしまったときに、それを思いとどまらせるものが「いいもの」の正体となるだろうか。それは、シンプルに「人を殺してはいけない」という倫理観かもしれないし、「殺人者」としてのレッテルが貼られる恐怖かもしれないし、家族や友人に迷惑をかける不安かもしれないし、それやこれやを総合的に判断して「殺人を犯すと面倒くさいことになりそうだ」という合理的な判断かもしれない。これらのものを強引にまとめるなら、「人間らしさ」だろうか。倫理観も合理的な判断も、不安も恐怖も、人間ならではのものだ。「殺意と殺人の間にいいものをおけ」とは、つまりは「殺意を抱いてしまったときには自分が人間であることを思い出して」という、作者の呼びかけなのかもしれない。
 
 
 
森離れ荒野に
一本だけ
立つ樹よ
君だけが陽を
全身に浴びている
 
としお
97p.

 

 群れを離れ、孤立・孤独を受け入れる生き方を礼賛するかのようなお歌。しかし、全身に浴びるのは陽の光だけではない。一本だけで立つということは豪雨も嵐も雷もすべて単独で受け止めなくてはならない。森には森ならではのメリットもあるだろう。しかし、それを覚悟した上で、孤立・孤独を受け入れるということは、やはり気高く美しいことだと感じる。個人的には、一本一本の樹がそれぞれ尊重され、充分な陽を浴びることができる上に、豪雨や嵐などのいざという時には手を差し伸べ合える、今の流行りの言葉で言うなら、樹木たちそれぞれがソーシャルディスタンスを守った森になれば良いのにと思う。
 
 
 
歌詠みの
歌知らず
己の未熟を知らずして
成長は
ない
 
ひさし
101p.

 

 耳に痛いお歌だが、とても大切なことを詠われている。歌のことをよく知らない人からすると、素晴らしい歌を書いているひとは、さぞかしたくさん素晴らしい歌を読んで勉強されていると思うかもしれないが、中に飛び込んでみると、これは「人それぞれ」というのが実感だ。たくさんの歌を読むこと(=インプット)が好きな方もいれば、たくさんの歌を書くこと(=アウトプット)が好きな方もいる。どちらも得意という方ももちろんたくさんいらっしゃるが、どちらかに偏っている方もある程度いらっしゃるという印象だ。かくいう私も古典などは、てんで勉強しておらず、常々自分の浅学ぶりを思い知ることが多い。伸びしろだけはあると信じて、少しずつ勉強してゆきたい。
 
 
 
怒れ
君は 君自身として
認められるべきだった
役割ではなく
 
宇佐美友見
138p.

 

 「スイミー」は国語の教科書に載っていたお話として、多くの方に親しまれている作品ではないだろうか。端的に説明すると、他の魚と容姿が違うことがコンプレックスだった主人公のスイミーがとある出来事をきっかけにそのコンプレックスを強みに変えて活躍し、それをきっかけに他の魚たちにも受け入れられるようになるという話だ。筆者も子供の頃読んで、「いい話だな」と感動した覚えがある。自分が抱えている劣等感も状況や視点を変えれば強みになるのかもしれない、というメッセージに希望を感じたのだと思う。しかし、このお歌はスイミーがその容姿で差別されていたこと自体に憤りを感じている。これが斬新な視点でハッとさせられた。確かにスイミーの容姿は生まれつきのもので、自身には何の落ち度もないものだ。それが原因で周囲から差別されているのであるから、人間社会に置き換えてみたら、それらが決して許されないものであることが良く分かる。名作を「いい話だったね」で終わらせるのではなく、現代的な視点で疑問を呈してみせるこの感性に惹かれた。
 
 
 
(夢)(うん)(嘘)
(かもしれない)(あ)
(気球)(だね)(遠く)
(誰も)(きっと)(憧れ)
(観覧車)(いつか)
 
南野薔子
170p.
 
 五行歌史上に残る意欲作のひとつではないだろうか。括弧書きにされた言葉は台詞の掛け合いのように感じられる。登場人物は2人のようにも、多くの人が居て代わりばんこに言葉を発しているようにも思える。歌の構造を整理するために、このお歌が登場人物2人(A,B)による台詞の掛け合いであり、交互に言葉を発していると仮定して、台本のような形式に書き直してみる。
 
A「夢」
B「うん」
A「嘘」
B「かもしれない」
A「あ」
B「気球」
A「だね」
B「遠く」
A「誰も」
B「きっと」
A「憧れ」
B「観覧車」
A「いつか」

 

 一応、会話のやりとりとして成立しているような印象。全体的に儚げなイメージがあるが、まず、のっけからAの「夢」という問い掛けに対して、Bが「うん」と肯定し、さらにAは「嘘」と言うと、Bは「かもしれない」と応える。これで、この歌全体が、夢か現かわからない世界での出来事ということがわかる。次に、二人は遠くを飛んでいる気球に気が付く。ここで気になるのがAの「誰も」という台詞。これは気球が無人の気球で誰も乗っていないものだという指摘だろうか。気象観測や天体観測の分野では無人気球がよく使われているらしく、Aはそうした気球に詳しかったのかもしれない。Bも「きっと」とそれに同調し、Aは次に「憧れ」と話す。これは気球そのものに憧れを抱いているとも、無人気球が関係する「空」や「天体」への憧れとも解釈できる。Bはそれに対して「観覧車」と話す。これは、おそらく気球の他に観覧車も見えているというよりは、Aの発した「憧れ」という言葉からの連想だと考えた方が自然なように思う。最後にAは「いつか」と話す。Bと一緒に観覧車に乗りに行きたいという気持ちの表れであろうが、ここに少し違和感がある。通常、遊園地等の観覧車の乗りに行くことはそこまで実現の難しいことではないが、なぜかこのお歌の「いつか」はあまり実現可能性が高くなさそうに感じるのである。そもそも「今度」ではなく、「いつか」なので、AとBには何らかの制約があって、すぐには遊園地等に行けない理由があるのだろう。例えば、どちらかが病院に長期入院しており、治療が終わって退院するまでは観覧車に乗れない、などと考えるとしっくりくる気がする。評と言うより、考察になってしまったが、それだけ魅力的なお歌になっているのは間違いない。いつか作者ご本人にこのお歌について聞いてみたい。
 
 
 
柱を巣食う
害虫
から
益虫への
キャリアアップ講座
 
山崎 光
177p.

 

 社会に出るための勉強をしている現在のご自分を、ユニークな視点で捉えたお歌であると読ませていただいた。親の脛(大黒柱?)を齧るのが害虫であるという表現は理解できるが、転身を遂げても「益虫」であり、人格は与えられていない点がシニカルというか、謙虚さを感じた。しかもその転身のための方法は「キャリアアップ講座」である。虫からずいぶんと飛距離のある言葉を選んだな、と感心させられた。しかも、この言葉のどことなく胡散臭さが感じられる点が実に効いている。作者自身もこの「キャリアアップ講座」が本当に役に立つのか、半信半疑なのではないかと感じられた。
 
 
 
人の死は
ほんのしばらく
いのちの
はかなさを
諭す
 
リプル
210-211p.

 

 二行目、「ほんのしばらく」がまさしくその通り、と膝を打った。人の死は「自分の人生もいつか終わる」ということを最も端的に実感する出来事だ。このお歌の通り、訃報に触れたり、葬儀に参列したりすると、故人を偲ぶ気持ちと共に、自分の人生を今一度見直そうという気持ちになることも多い。だが、そういう気持ちが本当に自分の生き方に大きな影響を与えるかというと、ほとんどの場合そうはならない。ほんのひとときの命の儚さに感傷的な気持ちになるものの、気が付くといつもの日常の忙しなさに追い立てられ、また元の鈍感で無神経な生き方に戻ってしまう。このお歌の良いところは、そうした人間の特性を責めたり、ダメ出ししたりするのではなく、「そういうものだよ」といった感じでどこか受容しているように感じられる点だと思う。読んでいて優しい口調で諭されているような気分になった。
 
 
 
ランチセットの
コーヒーに
小さいお菓子が
付いていると
午後はとても幸せ
 
茶わん
232p.

 

 とりとめのないことを、とても素直に歌っていて、それがとても素晴らしい。ささいで、かけがえのない日常を上手に切り取られていると思う。ランチセットは、お店にもよるだろうが、それだけですでにお得感があるメニューであることが多い。メインの料理の他に、サラダやスープ、ドリンクが付いたりする。そのドリンクのコーヒーにさらに、おそらくはメニューには載っていない、小さいお菓子が付くというのだから、これはもう期待以上の嬉しさというもの。お菓子はそんなに大層なものでなくていいのだ。小さいクッキーとか、チョコとか、安売りの袋菓子を小分けにしたものとかでまったく問題ない。とにかく、コーヒーにアテがあるということで、嬉しい気分になれる。幸せの持続期間が「午後」というのも絶妙でリアリティがある。
 
 
 
心の渇きが
止みません
それを埋める
術さえ
思いつきません
 
大橋克明
273p.

 

 ご自分の心の裡をストレートに詠われていてとても惹かれた。心の渇きが止まないことを自覚しつつ、それを埋める方法も思いつかない、というとてもシビアな状況を詠われている。こういう歌に対して、ありきたりの励ましなどは書きたくない。筆者の立場から、もっともらしいことをあれこれ書いたとしても、あまり意味は無いように感じる。心の渇きは作者自身のものであり、本当の意味で状況を打開できるのは作者だけだからだ。突破口があるとすれば、心の渇きととことん向き合って、作歌の糧とすることだろうか。ネガティブな気持ちは、創作にとっては良い原動力であり、ハッピーな気持ちより何倍も燃焼効率の良いガソリンだ。作者の今後の作品を楽しみに待ちたい。
 
 
 
九十二歳の母は
会うたびに
綺麗になっていく
生まれ変わる
準備をしている
 
藤田典子
276p.

 

 なんという素敵な歌だろうか。このお母様に是非一度お目にかかりたくなってしまう。四、五行目がまた素晴らしい。92歳という年齢ながらおそらくご健康に過されているお母様がいて、そのお母様が日ごと綺麗になられているように感じられ、また、そのことをこんな風に表現できるという、素晴らしさの惑星直列のような、奇跡みたいなお歌ではないだろうか。間違いなく名作。読んでいて目が覚める思いだった。
 
 
 
中島みゆきを熱唱する
浪人生
励ますつもりが
負けじと唄う
ばあちゃんのすがた
 
神島宏子
286p.

 

 これはなんと言っても「中島みゆき」が効いている。これが「松任谷由実」や「竹内まりや」では成立しない。いや、成立はするかもしれないが、このお歌の持つ迫力は出ないだろう。中島みゆきの歌の持つ、不器用に生きる人へのあたたかい眼差しは、浪人生にはさぞ沁みるに違いない。筆者も彼女の歌のファンである。負けじと唄ってしまうばあちゃんの姿にも大いに共感した。言葉での励ましより、カラオケでの熱唱で心が通じ合える瞬間もある。浪人生とばあちゃんのお二人の関係性に拍手を送りたい。
 
 
 
(了)