ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

雑誌『五行歌』2020年1月号 お気に入り五行歌

 どうも、ひげっちです。

 

 仕事をお休みしているので、本誌の読み進めが快調です。前回に引き続き、雑誌『五行歌』2020年1月号のお気に入り作品をご紹介します。

 

 

遠慮
ではなかった
足りなかったのは
本気と
勇気
 
宮川 蓮
41p.
 何かを悔いているお歌だと感じた。昔のことを思い出して「もっとこうすればよかった」「ああすべきだった」というような後悔を抱いてしまうことはよくある。日本では遠慮深いことが美徳であると思われやすい傾向にあり、その後悔の原因が自身の遠慮深い性格だったと考えれば、「でも自分はこういう性格だから・・・」と、ある程度自分を納得させられるものだったかもしれない。しかし、作者はそれで終わらず、自分に足りなかったものを歌にして真っ向から言い当ててみせる。ここに潔さと清々しさを感じる。自分に足りなかったものを自覚した作者は、今後は自分が「これ」と思ったものには、勇気を持って本気で飛び込んでゆくに違いない。
 
 
 
五才の孫娘が
スティックと足で操る
電子ドラムセット
夢馳せて
 
43p.
 ロック幼女の歌である。しかもドラマーというのはレアで良い。電子ドラムとは言え、足も使っているというので、バスドラもちゃんと叩いているのだろう。大変将来有望で素晴らしいと思う。四行目で彼女がなぜロックに目覚めたのかが種明かしされる。彼女は生まれる前から、母親のお腹の中で「ラルク・アン・シエル」というバンドの曲を聴いていたということなのだろう。ラルク・アン・シエル(通称:ラルク)は、いわゆるヴィジュアル系バンドとして一世を風靡し、今なお高い人気を誇る超有名バンドである。筆者も、思春期のころによく聴いていた大好きなバンドだ。小さなドラマーがいつか夢を叶え、大きく羽ばたくことを祈りたい。
 
 
 
数本の
深い傷を
懐に
薄っぺらく
生きる
 
岩瀬ちーこ
51p.
 四行目の「薄っぺらく」が効いていると思う。謙遜を込めての表現であろうが、ご自分の生き方を決してひけらかさない姿勢に好感を抱いた。それでも、作者の抱える傷は「深い」のだ。もしかしたら、まだ癒えきっていない、塞がりきっていないのかもしれない。しかも、傷は一つではなく複数である。このお歌を歌えるようになるまでに必要だった時間と作者がなさってきたであろう苦労に思いを馳せた。全体を通して簡潔な言葉で短くまとめられているが、読んだ人に確かな余韻を残すお歌。
 
 
 
猫が温めた
椅子に
信長の気分で
座る
ようやった
 
中山まさこ
96p.
 ほっこりさせていただいたお歌。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が冬に信長の草履を懐に入れて温めたというエピソードにちなみ、猫に自分の椅子を温めさせているという。五行目の「ようやった」が完全に信長目線になっていて可笑しい。猫もきっと「御意にございます」と忠誠を誓ってくれるのではないだろうか。
 
 
 
遠からずきみは死ぬだろう
遠からずぼくも死ぬだろう
その後も 雲は流れ
木々は揺れ
草は戦(そよ)ぐだろう
 
村田新平
119p.
 特集「老いたふたり」より。奥様とご自分について詠われた秀歌が並ぶ特集であったが、この作品が最も心に響いた。「死」を遠くない未来として受容している姿勢にまず尊敬の念を抱く。年齢的になかなかこの域に達することはできないが、「メメント・モリ(死を忘るなかれ)」という昔からの格言もあるように、本当は人間はいつでも「死」を身近に感じているべきなのだと思う。ご自分達が亡くなられた後の自然の営みに想いを馳せる三~五行目も、とても美しい情景がイメージとして浮かび、惹かれた。
 
 
 
物語りは佳境か
ラッシュにも
異世界の笑み
赤皮のブックカバーの
女(ひと)よ
 
159p.
 電車かバスの中で、本を読んでいる女性のことをいきいきと詠っている。三行目「異世界の笑み」が良い。彼女はラッシュをものともせず、物語の世界に入り込み、笑みさえ浮かべているというのだ。見る人が見れば、ちょっと不気味とさえ思うかもしれないが、作者はどちらかと言えば好意的な目線で彼女のことを見ているように感じられた。というのも、ここ数年で電車やバスの車内では、大半がスマホを見る人ばかりになり、本を読む人が珍しくなりつつあるからだ。今時珍しく車内で物語の世界に没頭する人、という視点が成立するからこそ、このお歌の魅力が引き立つように感じた。
 
 
 
きっと
闇と
戦い始めた
坊やの
輝き
 
菅原弘助
191p.
 「坊や」の年齢がいくつくらいなのか、「闇」が具体的に何なのか、は読み手には分からないが、とても惹かれたお歌。読み手各々が、自分にとっての「坊や」や「闇」を思い浮かべられるのも、このお歌の魅力の一つではないかと感じた。「坊や」の行く末にはきっと一筋縄では行かない何かがあり、本人もそれに気付き始めた年齢なのだろう。どうか「闇」に負けず、いや、正確には「闇」に負けてしまうことがあってもいいから、どうかしぶとく生き延びて、できる限り健やかに成長して欲しい。
 
 
 
お菓子の空き箱を
立体の
アートに変える
若き作家の
指先には赤い胼胝(たこ)
 
福田雅子
194p.
 お菓子の空き箱を利用して人形や建物などを造るアートは、話題になったのでご存知の方も多いだろう。元のパッケージを活かしたそれらのアートは、見た目のインパクトもあり、SNS等で人気を博している。とても現代的な題材であるが、作者はそれらを造る作家の指先に胼胝があることを見逃さない。どちらかと言えば、お菓子の空き箱アートは、昔からある絵画や彫刻などの芸術に比べて、SNS映えや話題づくりを狙ったお遊び的なもの、と捉えられてしまう面もあるだろう。しかし作者の視点は、そこにものを造るということの大変さ、努力の積み重ねがあることを気付かせてくれる。作者独自の視点が光るお歌。
 
 
 
風邪をひくと
お隣から上の階から
毎日お惣菜が届く
高層団地の
長屋暮らし
 
秋川果南
202p.
 この令和の時代にもこういった「困ったときはお互いさま」の、ご近所づきあいが残っていることに安堵感を覚える。しかもそれは、昔ながらの下町の長屋ではなく、高層団地での出来事というギャップがまた素敵だ。これは間違いなく作者の人間性の為せる業だろう。日頃から、ご近所と良好な関係を築いているからこそ、病気の時にこうして親身になってくれる方がいるのだ。ご近所づきあいも、気の合う人だけではないであろうし、何かと煩わしい面もあるだろう。それでも、こういう良い面を感じられるお歌を目にすると、人付き合いもまだまだ捨てたもんじゃないな、と思うことができる。素晴らしいご近所関係だと思う。
 
 
 
言うだけで
何もしないのね
言ってしまって
自分の言葉に
自分が傷ついている
 
岡本育子
276p.
 つい本音をこぼし、それが相手を傷付けたことに気付き、自分を責めていらっしゃるお歌だと感じた。こういう後悔は筆者にも身に覚えがある。筆者も思ったことをつい考え無しに口走ってしまうことが多く、後からそれを悔いて悶々とすることがある。昔、大好きな友達に言われて良く覚えているのが「言葉は受け取った人のもの」という言葉だ。自身では自分に誠実であろうとしているつもりでも、それが結果的に相手を傷付けてしまうとしたら、相手から見た自分は「誠実な人」ではなく「失礼な人」である。もちろん、相手のためを思って自分を偽ることが大事というのではなく、自分の気持ちを伝えるなら、それを受け取った相手側の視点を持つことが大事なのだと思う。四、五行目の相手を傷付けた故に自分を責める作者の優しさは胸が詰まるものがある。自分を大切にすることと、話し相手を大切にすることは、深い意味で同義なのではないか。そんなことを考えさせられたお歌。
 
 
 
「できない」
とふつうに言え
なんとか、やったあとも
「できなかった」
と普通に言え
 
山川 進
284p.
 手に余る仕事を任されそうな時の対処法を説いてくれているお歌だろうか。簡単に「できます」「やります」と言うべきではないということだと感じた。要は、「自分を実力以上に高く見積もるな」ということではないだろうか。「ちょっとキツいな」という仕事でも、やっているうちに周りの人の助けもあって、意外と何とかできてしまい、それが自信になり、また次にちょっとキツめの仕事にトライする・・・、というのが、私の仕事に対するイメージだが、このお歌は、そうした仕事のやり方はいつか自分の首を絞めるよ、と諭しているかのよう。仕事で「できない」と、しかも「普通に」言うのは簡単なことではないが、仕事をするときに、頭の片隅に置いておきたくなるお歌だ。
 
 
 
(了)