ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

雑誌『五行歌』2019年2月号 お気に入り五行歌

どうも、ひげっちです。
 
1月号とずいぶんと間が空いてしまいましたが、
五行歌2月号のお気に入り五行歌をご紹介致します。
 
 
仏間と玄関に
花が活けてあれば◎
リビングだけなら○
萎れていたら×
母の体調の目安となる
 
倉本美穂子
39p.
 
 一緒に住んではいない、病気がちなお母様のお宅を訪問したときのお歌だろう。お母様は花が大好きなのか、家のあちこちに花を活けているご様子。その花の活けてある場所と、花の鮮度がお母様の体調のバロメーターとなっているとの着眼点が面白い。こういう些細なところに気が付くのも、作者がお母様のお宅に行く時間を大切にして、小さな変化も見逃すまいと目配りをしているからだろう。母思いの作者のお人柄が伝わる、素敵なお歌だ。
 
 
心ひらけば
解りあえる
そんな幻想が
生み出す
かなしい諍い
 
神島宏子
76p.
 
 人は皆違う。当たり前だが、本当に人は皆違う。心をひらいて解りあえるのは、たいてい気の合う人間同士の場合だけで、そうではない場合は、心をひらくことで、むしろお互いの立場や意見の違いが鮮明になる場合が多い。時にはこの歌のように諍いにまでなってしまうケースもあるだろう。でも、諍いになったとしても、心をひらいて自分の意見をぶつけ合うことは決して無意味ではないように思う。私にはこのお歌は悲しいだけのお歌とは思えない。諍いの後に、相互理解が待っていることも有るに違いない。双方がやわらない心を持ってさえいれば。
 
 
すでに
戦前かも知れない
平成の世は
かくのごとく
終わらんとしている

 

深見 犇
89p.
 
 平成も終わりに近付いているが、時代は閉塞感を増しているように思う。どの国のどのリーダーも、語るのは自国の利益を如何に確保するかということばかり。テロや銃の乱射事件も頻繁に起きすぎて、もはや感覚が麻痺している。私達は時代にゆっくりと狂わされているのかもしれない。平成は少なくとも日本の国土が戦場になることはなかった時代として終わりそうであるが、次の時代もそれを継続していくために、自分は何が出来るのか。そんなことを考えさせられたお歌。
 
 
捨てるのではなく
放つ
時が来たらきっと
かたちを変えて
現れるだろう

 

コバライチ*キコ
184p.
 
 解説するのが難しいが、理屈抜きに感覚として、とても好きなお歌。放つ、としたのは素直に読めば、自分のお気持ちのことか。自分が囚われていた気持ちや感情から自由になり、距離と時間をおくことで、その気持ちや感情との関係性も変わってくるということだろうか。作者のお歌はいつも凛とした清々しさがあって惹かれてしまう。
 
 
寒風の中
赤くなれないトマトを
かじってみた
悪い夢が詰まったような
苦い味

 

野田 凛
187p.
 
 冬のトマトは見た目が悪い、値段が高い、味がまずい、と三拍子揃っていると思うが、それでもお店に並ぶトマトは赤く熟している気がするので、1~2行目から察するに、家庭菜園で作ったトマトの歌のように思う。4行目の表現が斬新で魅力的。トマトが美味しくなる季節が待ち遠しくなるお歌。
 
 
歪んだ世界に
歪んだ自分を置けば
まっとうな人間に
見えるという
テクニック

 

王生令子
188p.
 
 これは実は多くの人が知らず知らずのうちに駆使しているテクニックではないか。世界も自分も歪んでいるくらいが健全であると考えているので、まっとうに見える人の正体というのは、歪み具合がたまたまその世界にマッチしているだけ、というものなのかもしれない。世界がまっとうだと考えている人も、自分がまっとうだと考えている人も、どちらも同じようにたちが悪いのかもしれない。そんなことを考えさせられたお歌。
 
 
自分の至らなさを
認める 嗤う 落ち込む
そこからだ
何かが
回り始めるのは

 

富士江
191p.
 
 ものすごく共感を覚えるお歌。二行目の「嗤う」がいい。自分の未熟さ、どうしようもなさを、認めるだけでなく、嘲笑する姿勢。ここに惹かれた。嘲笑できるというのは、自分を客観視できているということであり、自分を俯瞰で見ているような、ある種の別人格のようなものがあるということだろう。そういう人はきっと追い込まれてからでも粘り強い。自分の至らなさを心底思い知った後で、前に進もうとする意志を感じる力強いお歌だ。
 
 
ジャージの上下
口から出たのは
ジョージのジャーゲ
それだけで
一日が明るい

 

はる
214p.
 
 ささいな言い間違いであるが、「あるある」と共感してしまう。きっとこの言い間違いから、笑いが生まれて楽しい気分になられたのだろう。しかし作者は、ちょっとその場が明るくなるだけならいざ知らず、五行目で「一日が明るい」とまで書いている。これは、よほど普段からハッピーで笑いの絶えない生活をされているのか、逆にささいな笑いを繰り返し反芻して味わう必要があるくらい、シビアな現状に置かれている方なのかもしれない、と考えた。願わくば、前者であって欲しいが、果たして。
 
 
かけ蕎麦が
食べたい
好きな人のことを
想って
力の限り泣いたら

 

河辺ちとせ
249p.
 
 後ろ三行から推測するに、作者は失恋あるいは悲しい別離を体験されたのだろうか?食べたくなるのが「かけ蕎麦」であるのが良い。「ラーメン」だとちょっと俗っぽいし、「パスタ」だとちょっとオシャレすぎる。「かけ蕎麦」の庶民感がとても良い味を出しているお歌だと思う。無条件で、この作者を応援したくなる気持ちになる。
 
 
骨壺のしまる瞬間
姿を見せる最後に
骸骨は
微笑んでいたい
微笑んであげたい

 

足立洸龍
332p.
 
 骸骨になってまで、自分を送ってくれる人に対して微笑んでいたい、と思うお気持ちに打たれた。そこには、日頃自分に良くしてくれている人達への感謝があるのだろう。そしておそらく作者は、ご自分が骨壺に入る瞬間というのを、そう遠くない未来として捉えている方のように感じる。四、五行目の表現も巧み。
 
(了)