ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

歌集についての雑記と、これからの話。

 どうも、ひげっちです。

 

 先日、日本現代詩歌文学館というところに、私の歌集を寄贈させていただいたのですが、今日、丁寧な御礼のお手紙が届いて、嬉しい気持ちになりました。早速、文学館のサイトで蔵書検索して、自分の歌集がヒットして(当たり前と言えば当たり前なんですが)、二度嬉しい気持ちになりました。

 

 ひげっちは図書館情報学のしつけを受けてきた人間なので、まず自分の本の目録データがあるという事実にそこそこの興奮を覚えます。さらに、「請求記号」とか「閲覧可」という表示があることでゾクゾクしてしまいます。あんまり書くと変態だと思われるので、この辺でやめておきます。要は、それくらい自分の本が「館」と名の付くところに所蔵されているという事実が嬉しかったのです。

 

 先週の日曜日には、読売新聞の地域欄の読者記者をしている方に、私の歌集について、取材してもらいました。取材を受けるのは、初めての経験でしたが、その方も五行歌人であると同時に、母の友人でもあったので、終始和やかなムードで身の上話をし合うような、ゆるくて楽しい取材でした。記事になるかどうかはわからないそうですが、こういったご縁をいただけるのも、歌集を出したからこそですね。

 

 話は少し変わりますが、私は今まで五行歌や短歌を書くにあたって、勉強っぽいことをまったくと言っていいほど、してきませんでした。例えば入門書を読んだり、古典を学んだりといったようなことです。歌会のプリントや、他の方の歌集は喜んで読んでいましたが、それもあくまで読者として楽しんでいただけで、意識的に表現の手がかりを求めるような読み方ではありませんでした。そんな人間が歌集を出してしまうのですから、厚顔無恥もいいとこですが、私は詩歌の勉強を、半分は意図的に、半分は成り行きで、避けてきたと言ってもいいと思います。

 

 ひとつには、自分の好きな詩歌という趣味を「お勉強」にしてしまいたくない、という気持ちがあったと思います。半端な勉強ではかえって表現の幅が狭まり、窮屈になってしまいそう、という思い込みもありました。もうひとつには、自身が抱えていた「表現欲求」とも言うべきものがパンパンに膨らんでいたため、インプットを受け入れる余地が無かったようにも思います。

 

 歌集というのは、不思議なもので、「本当に自分が書いたのか?」と疑いたくなるほどよく出来ているようにも思えるし、自分の幼さ・拙さばかりが目立つ、浅はかなものにも思えるのです。どちらにせよ、笑っちゃうくらい自分っぽくて、とびきりいとおしい本なのは間違いないのですが。

 

 今、私はなかなか納得のいく歌が書けないモードなのですが、正直な話、この『だらしのないぬくもり』の自己模倣のような歌であれば、これからも書き続けられるだろうな、という確信のようなものはあります。でも私はできれば、それはしたくないです。いつまでも、自分で自分をわくわくさせられるような歌を書いていたい。そのためには、今さらながら、勉強が必要だと気付きました。解消された表現欲求で空いた隙間に、次の弾を込める作業と言っても良いかもしれません。入門書、古典、小説、漫画、映画、もちろん歌集も、意識的で能動的なインプットを心掛けたいです。一時的に、歌がつまらなくなることも、窮屈になることもあるでしょう。でもそれは、次の20年、あるいは40年、楽しく詩歌と向き合っていくために、きっと必要なことなのだと思います。歌集という目に見える形を残せたからこそ、今度は思い切って、今までの自分を改築する段階に入ってゆきたいです。次の歌集のために。