ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

歌詞をどう解釈するか?(4)

 次に、自分の大好きなバンド、THE YELLOW MONKEYの9枚目のシングルであり、彼らの代表曲でもある『JAM』を取り上げたい。

 

THE YELLOW MONKEY『JAM』歌詞

 

 この楽曲は高校時代から何度も繰り返し聴いている曲であり、思い入れが強すぎて、公正に解説するのが難しいかもしれないが、なるべく冷静な分析を心がけたいと思う。

 

 まず、最初に歌詞とは少し離れてしまうが、タイトルの「JAM」という言葉の意味について少し触れておきたい。

 

 「jam」という単語には非常に多くの意味があり、名詞だけに限定したとしても
下記のように様々な意味を持つ。


 1. (果物の)ジャム
 2. 混雑,雑踏,押し合い
 3. 集まり,込み合い, 集積物
 4. 故障,停止
 5. 困難,苦境,窮地,ジレンマ
 6. (カセットレコーダーなどから流れる)音楽(歌)


(参考)jamの意味 - goo辞書
 http://dictionary.goo.ne.jp/ej/45668/meaning/m0u/
 http://dictionary.goo.ne.jp/ej/45670/meaning/m0u/

 

 タイトルの意味を、歌詞と照らし合わせると、「この世界に真っ赤なジャムを塗って 食べようとする奴がいても」とあることから、1の意味は確定だろう。「暗い部屋で(中略)震えている」「僕は何を思えばいいんだろう 僕は何て言えばいいんだろう」といったフレーズから、5の解釈もありえそう。「素敵な物が欲しいけど あんまり売ってないから 好きな歌を歌う」から、6という捉え方もできそうだ。

 

 タイトルについては、上記3つの意味のダブルミーニング(あるいはトリプルミーニング)ではないかと思っている。

 

 さて、話を歌詞に戻す。楽曲の主人公について、歌詞から読み取れるのは、

 

・一人称が「僕」であることから、おそらく男性である
・「抱きしめたい」「逢いたい」と願っている「君」という存在がいる
・「時代は裏切りも悲しみも 全てを僕にくれる」とあることから、心に傷や悲しみを持っている

 

といったところだろうか。

 

 では、この「僕」の抱えている問題とは何か?

 純粋なラブソングとして考えるなら、「君を抱きしめたい」「君に逢いたくて」ということかもしれない。もしくは、心に抱えている傷や悲しみをどうにかしたい、ということかもしれない。

 

 他には分かりやすい問題を提起したフレーズは見当たらないので、上記のどちらかであるという解釈も成り立つであろうが、念のため、前回と同じ手法を試してみよう。

 

 前回と同じく、「答え」らしきフレーズを探すとしたら、1番のサビの後半の下記の箇所になるだろうか。

 

儚さに包まれて 切なさに酔いしれて
影も形もない僕は
素敵な物が欲しいけど あんまり売ってないから
好きな歌を歌う


 このフレーズは、よく読むと、歌詞解釈的には完璧としか言いようがない。

 

 自己の心許なさを抱えているという「設定」、素敵な物が「あんまり」売ってない=お金は(たぶん)全てではないという「世界観」、それでも自分は好きな歌を歌うしかないんだ、という「解決」、これらがすべて凝縮されているからだ。

 

 ここに記されているとおりの「解決」でも、決して不自然ではないが、あくまでこの歌詞は1番のサビである。

 

 続く2番のサビの後半部分に以下のフレーズがある。

 

外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターは嬉しそうに
乗客に日本人はいませんでした
「いませんでした」「いませんでした」
僕は何を思えばいいんだろう 僕は何て言えばいいんだろう
こんな夜は逢いたくて 逢いたくて 逢いたくて
君に逢いたくて 君に逢いたくて
また明日を待っている


 「外国で飛行機が~」の一連のフレーズで糾弾される世界の残酷さと矛盾。
それを目の前にして、何を思えばいいのか、何て言えばいいのかわからず、立ちつくしてしまう「僕」。

 

 出てくる箇所がいささか楽曲の後半すぎるが、これこそが第2の「設定」ではないだろうか。

 

 この部分のインパクトが強すぎるため、この楽曲は社会的・政治的メッセージを含んだ曲だと、多くの人に理解されているように思う。

 

 だが、続くフレーズでは「こんな夜は逢いたくて(中略)また明日を待っている」と、「君」に逢いたいという気持ちが強調され、「明日を待っている」という微かな希望とともに楽曲が締め括られる。

 

 世界の残酷さと矛盾に対する答えは持たないが、「君に逢いたい」という気持ちだけは確かなもので、「君に逢える(かもしれない)明日」には希望を持っている。これが第2の「解決」だろう。

 

 以上をまとめると、この楽曲のテーマは以下のようになる。

 

 「自己に心許なさを感じており、お金は(たぶん)全てではないと感じている「僕」が、好きな歌を歌うしかないんだ、と自らのアイデンティティを確認するが、世界の残酷さと矛盾を目の当たりにして、自分を見失いそうになり、「君に逢いたい」という気持ちだけは確かなことに気付き、明日に希望を抱くまでの物語」

 

 前回の日記で触れたように、「僕と君」を「アーティストとリスナー」に読み替えても成立する楽曲であるように思うが、個人的には、この楽曲は純粋なラブソングであると考えるのがしっくりくる。

 

 「たとえ世界が終ろうとも 二人の愛は変わらずに」のフレーズに代表されるように、「愛の言葉」の強度が強いし、楽曲の後半部、クライマックスで、「逢いたくて」と何度も繰り返される。

 

 Wikipediaによると、作詞・作曲を担当した吉井さんは、
「『君に逢いたくて』というくだりは、当時、娘に向けて書いたんです。」と語っている。
 

ja.wikipedia.org

 

 

 この事実を私が知ったのは、つい最近だが、さもありなん、と感じた。恋人に向けての楽曲だとしたら、ちょっと気持ちが重すぎる気もしたが、肉親である自分の娘に向けてのものだとしたら、腑に落ちる点が多いように思う。

 

 もちろん、この楽曲を社会的メッセージソングと捉えるのも、自分の歌う理由を見つけたシンガーの歌と捉えるのも自由だ。


 複数の解釈ができる楽曲というのは、名曲の証でもあると思うからだ。

 

 『タガタメ』『TRAIN-TRAIN』『JAM』と、毛色は違えど、ストレートなメッセージを含んだ楽曲を取り上げてきた。次回はちょっと変化球な楽曲も取り上げてみたい。

 

 

※この記事は2016年1月7日にmixiの日記として公開したものに加筆・修正を加えたものです。

 

 

(続く)

歌詞をどう解釈するか?(3)

 次に、伝説のバンドであり、多くのアーティストに多大な影響を与えたTHE BLUE HEARTSの3枚目のシングルである『TRAIN-TRAIN』を取り上げたい。

 

THE BLUE HEARTS『TRAIN-TRAIN』歌詞

 

 楽曲の主人公について、歌詞から読み取れるのは、

 

・一人称が「僕」であることから、おそらく男性である
・「抱きしめたい」と思っている「あなた」という存在がいる
・「栄光に向かって走る列車に乗ろうとしている」ことから、まだ栄光を手にしていない者である
・「土砂降りの痛みのなかを」とあることから、心に何らかの痛みを抱えた者である

 

といったところだろう。

 

 では、この「僕」の問題とは何であろうか?
単純に設定するなら、冒頭で出てくる通りに「栄光を手にしたい」ということか?
あるいは、1番のAメロの最後の部分の通りに「あなたを抱きしめていたい」ということだろうか?

 

 推理小説なら絶対にタブーだが、歌詞の場合は、こういう時には、先に「答え」の部分を見ればよい。

 

 この楽曲の結論めいた部分は、3番のAメロの最後の部分である下記のフレーズだろう。

 

土砂降りの痛みのなかを 傘もささず走っていく
いやらしさも汚ならしさも むきだしにして走っていく

聖者になんてなれないよ だけど生きてる方がいい
だから僕は歌うんだよ 精一杯でかい声で

 

 

 ここで、この歌の解決は、どんなに醜くても生きるべきだ、という「生の肯定」であり、それこそが自分の歌う理由であるという「アイデンティティの確認」であるとわかる。

 

 ここが「解決」であると考えれば、逆説的に当初の「僕」は「生の肯定が不十分で、アイデンティティも揺らいでいる」状態だったのではないか。

 

 「栄光を手にしたい」のも「あなたを抱きしめていたい」のもそういった状態を何とか変えたいと思っているからこそ、と考えれば納得がいく。

 

 さらに、この楽曲にも作詞家の「世界観」を表す名フレーズが2箇所ある。

 

 一つ目は1番のAメロの後半の下記の部分。

 

ここは天国じゃないんだ かと言って 地獄でもない
いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない

 

 これは自分の生きる世界の現状認識であろう。最高ではないが、最悪でもない。多くの人が共感できるリアルな世界観と言っていいだろう。

 

そして、二つ目は2番のAメロの前半部分。

 

世界中に定められた どんな記念日なんかより
あなたが生きている今日は どんなにすばらしいだろう

世界中に建てられてる どんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう

 

 「あなたが生きている今日」の素晴らしさの肯定。言い換えれば、当たり前のような「日常の価値」への気付きだろう。

 

 以上をまとめると、少し強引かもしれないが、この楽曲のテーマは以下のようになる。

 

「自分が何者かわからず、何のために生きているのかもわからない男がリアルな現状認識と、”あなた”が生きている今日の価値に気付いたことにより、自らの生を肯定し、アイデンティティを確認するようになるまでの物語」

 

 蛇足ながら付け加えるとすれば、多くの邦楽の楽曲においては、一見ラブソングのように見える「僕」と「君・あなた」の物語が、実は「アーティスト自身」と「楽曲を聴いてくれる人達・リスナー」の物語のメタファーであることが多い。

 

 そうした観点から、もう一度この楽曲を解釈しなおすとすれば、

 

「何のために歌っているのかわからずにいたアーティストが、楽曲を聴いてくれる人達のがいることの素晴らしさに気付き、どんなに醜くても生き続け、精一杯歌おう、という意思表示に至るまでの物語」

 

と解釈することも可能ではないか。

 

どちらの物語を好むかは聞く人次第だが、こういった多面的な解釈ができる楽曲には名曲が多いことは確かな気がする。

 

※この記事は2016年1月1日にmixiの日記として公開したものに加筆・修正を加えたものです。

 

(続く)

歌詞をどう解釈するか?(2)

 それでは、実際の楽曲を例に挙げて、「楽曲のテーマ」について、
「設定」と「解決」を当てはめて考えてみたい。

 

 最初は言わずと知れた超人気バンド、Mr.Childrenの11枚目のアルバム『シフクノオト』に収録されているこの楽曲を取り上げたい。

 

Mr.Children『タガタメ』歌詞

 

 楽曲の主人公について、歌詞から読み取れるのは、

・一人称が「僕」であることから、おそらく男性である
・結婚をしてるか、少なくとも一緒に暮らしていると思われる「君」という存在がいる
・犬を飼っているらしい
・夜の映画番組が始まるくらいの時刻で、眠るにはまだ早い(と「僕」が思っている)時間帯である

 

といったところか。

 この主人公が抱えている問題(設定)は、1番のBメロ(サビの前半というべきか)で示される。

子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?

 

 明言はされていないものの、深読みしないで素直に考えるなら、ここに出てくる「子供ら」は「僕」と「君」の子供であるとするのが自然だろう。あるいは、「子供ら」と複数形で示されていることから、単に主人公たちの子供にとどまらず、世の中の数多の「子供たち」を指している、と考えることもできる。

 では、子供たちを被害者あるいは加害者にしてしまうものとは何であるか?
ここは、聞く人で解釈が分かれるところかもしれない。

 

 サビで「戦って 誰 勝った?」「誰がため 戦った?」と歌われているところから、「反戦」のメッセージソングだと受け止めることができるし、「少年犯罪」をテーマにしていると解釈することも可能だろう。

 

 だが、子供たちを苦しめるものの正体に拘り過ぎてしまうと、この楽曲の問題を見失う恐れがある。

 

 この楽曲の問題の主眼はあくまで、戦争や犯罪に巻き込まれないで、「子供たちに幸せに暮らして欲しい」という願いであり、「そのためには自分に何ができるか?」という自問であろう。

 

 その次に重要な歌詞と思われるのが、2番のAメロである下記の部分である。

 

左の人 右の人
ふとした場所できっと繋がってるから
片一方を裁けないよな
僕らは連鎖する生き物だよ

 

 ここは、作詞家のいわば「世界観」を伝える箇所であり、優れた楽曲(というよりは、私の好きな楽曲)の歌詞には、しばしば「作詞家が世界をどのように捉えているか」を表すフレーズが含まれていることが多い。

 

 この部分のメッセージは、世界を「善」と「悪」で分けることの無意味さであり、子供たちを被害者たらしめるもの、を単純に憎んだり、排除することでは問題は解決しない、ということの気付きではないだろうか。

 

 サビのリフレインを除く最後の歌詞である、3番のBメロで当初の問題に対する答えのようなフレーズが出てくる。

 

でももしも被害者に 加害者になったとき
かろうじて出来ることは
相変わらず 性懲りもなく
愛すこと以外にない

 

 上記の気付きを経ての、自分にできることは愛することしかない、という決意の表明。言い換えれば、戦うことを是としない、非暴力の宣言であろう。

 

 以上を踏まえると、この楽曲のテーマは、以下のようにまとめることが出来ると思う。

 

「子供たちの幸せを願い、自分にできることが何かを思い悩んでいる男が、世界を「善」と「悪」で分けることの無意味さに気付き、自分にできることは子供たちを愛すこと以外にないんだ、と決意する物語」

 

 作詞家という言葉のプロが精査して書いた歌詞を、文章で表現しなおす、という非常に失礼で、無粋な作業をしているが、歌詞の解説というのはそういうものなのだろう。

 

 この楽曲に関しては、「設定」も「解決」もこれ以上ないくらいにわかりやすく、ストレートな例である上、込められたメッセージが多くの人の共感を得られるものであると感じたので、最初に取り上げさせてもらった。

 

 少し長くなってしまった。次回は別の楽曲について見ていきたい。

 

※この記事は2016年1月1日にmixiの日記として公開したものに加筆・修正を加えたものです。

 

 

(続く)

歌詞をどう解釈するか?(1)

 どうも、ひげっちです。

 

 どっぷりmixi世代のひげっちなので、mixiにも過去に書いたお気に入りの記事があるんですが、ひょっとしたらひょっとする場合に備えて、こちらに転載しておくことを思い付きました。暇だし。より多くの人に読んで貰えたら嬉しいし。

 

 というわけで、今回は音楽の歌詞についてのお話です。もう5年近く前の記事なので、拙いところもありますが、興味のある箇所だけでも読んでいただけたら幸いです。

 

 

  • 日記を書こうと思った経緯

 

 とある友人が当時、とても興味深い日記を書いた。映画や漫画のストーリーを理解するためには、「設定」と「解決」に注目すればよい、という話だ。

 

「主人公は冒頭、どのような問題を抱えているか?」(設定)
「ラスト、その問題はどのように変化したのか?」(解決)


例示される数々の映画・漫画の分析を読むにつれ、この理論はすごい、と思うようになった。今まで好きな作品を語るときには、

「このシーンが良い」「この俳優の演技がすごい」
「このキャラのセリフが堪らない」「この構図が素晴らしすぎる」

といった、いわゆる「感想」しか語る言葉を持たなかった。
多くの映画ファン・漫画ファンとはそういうものだろう。

 

だが、この理論を応用すれば、ある種の「評論」的な語り方を可能にする、指針のようなものが得られる気がしたのだ。

 

彼の日記を読んで、自分は好きな「歌詞」について、この理論を応用してみたいと思った。

 

  • なぜ歌詞に注目したのか?

 

 昔から、音楽、特に邦楽を聞く時には歌詞を重視している。

アーティストを好きなるきっかけはメロディーであることが多いが、「好き」が「大好き」に変わるきっかけは歌詞であることが多いと思う。

 

 メロディーは天性のものであり、選ばれた人間にしか降りてこない魔法のようなものだと思っている。一方、歌詞は言葉である以上、日本語(そして多くの場合少しの英語)を操れる人間なら誰でも書ける。人間が書いた歌詞である以上、歌詞には必ず作詞家の意志が表れており、何らかのメッセージが含まれる。

 

同じことばかり繰り返し歌われる歌詞には、
「一つの(大事な)ことを伝えたい」
というメッセージが含まれているし、

 

どうでもいい歌詞には、
「歌詞なんてどうでもいい」
というメッセージが含まれているし、

 

意味のない言葉を並べただけの歌詞には、
「歌詞に意味なんて必要ない」
というメッセージが含まれている、と考える。

 

 素晴らしいメロディーが、必ずしも素晴らしい人間に降りてくるとは思わないが、素晴らしい歌詞を書く人間には、何かしら素晴らしい点があるか、少なくとも、素晴らしくあろうとする意志があると思う。

 

 それゆえに、自分の好きな邦楽で、特に作曲家と作詞家が同じアーティストを聞く時には、メロディーよりも歌詞に注目した方が、「そのアーティストがどのような人間であるか」を理解しやすいと考える。

 

 以上のような、意識を持った上で、私は「設定」と「解決」の理論を歌詞に当てはめて、考えてみたいと思う。

 

※この記事は2015年12月28日にmixiの日記として公開したものに加筆・修正を加えたものです。

 

(続く)

 

五行歌の評価基準(ひげっち流)

 どうも、ひげっちです。

 

 いわさきくらげさんの歌会での新採点方式に関する以下の記事を読んで、大変感銘を受け、自分は五行歌を読むときにどこに注目しているのか、と自問しました。

 

blog.livedoor.jp

 

 

 半年遅れくらいのペースになってはいるものの、雑誌『五行歌』に載っているすべての歌を読むということをある程度続けてきて、朧気ながら自分の中に歌の評価基準というものができてきたように思います。

 

 自分が五行歌を評価するときに注目している点は、下記の5点です。

 

1.想い・伝えたいこと・世界観
   その歌に込められた想い、歌を通して誰かに伝えたいこと、提示したい世界観などが感じ取れるかどうか。また、それらが自分の好みに合うかどうか。


2.言葉遣い・表記
   1.を表現するための手段として、ひらがな・漢字表記、口語・文語、旧仮名遣い、同義語、記号(カッコ、疑問符、感嘆符、句読点等)などの選択が適切であるかどうか。また、それらが3.と調和しているかどうか。


3.呼吸・リズム・構成
   1.を表現するための手段として、改行、一行ごとの文字数、韻律、台詞(会話文)、倒置法などの選択が適切であるかどうか。また、それらが2.と調和しているかどうか。


4.詩の形象
   文字に書かれた状態における歌の視覚的な外観と、それから読み手が受ける印象やイメージが、1.~3.と調和しているかどうか。


5.新規性・工夫・アイディア
   1.~4.の表現に、目新しさや工夫、アイディアなどが感じられるかどうか。ありきたりで平凡な歌になっていないかどうか。

 

 もちろん他にも評価基準はあり得るでしょうが、今のところ、私はこの5項目にある程度納得しています。1.~5.のどこに重きを置くのかは人によって様々でしょうし、極端な話、その日の気分や体調によっても変わってくるものでしょう。どんなに基準を設けても、最後は人間が評価するのですから、評価は生モノ。だから歌会は楽しいんでしょうね。あ~早くリアル歌会に行きたいです。

 

 

(了)

雑誌『五行歌』2019年11月号 お気に入り五行歌

 どうも、ひげっちです。

 

 相変わらずコロナの影響が続いており、それなりにストレスフルな毎日ですが、その一方、オンラインのあれこれを使ってそれなりにこの状況を楽しんでいる毎日でもあります。まだまだ油断は禁物ですが、少しずつ日常が戻り始めている気配も感じます。

 

 雑誌『五行歌』2019年11月号のお気に入り作品をご紹介します。

 

 

どんなに
独房を
共有しようとしても
そこには
あなた一人しかいない

 

憂慧
6p.

 

 「あなた」が誰を指すのかで、解釈が変わってくるであろうお歌。歌から読み取れるのは「あなた」は「独房を共有しよう」としている存在であるというだけである。「独房」を言葉通り解釈するなら、何らかの罪を犯して刑務所のようなところに居る人ということになろう。「あなた」がその境遇を「共有しよう」としているとは、一体どういうことだろう。何かの比喩のようにも思える。例えば、大きな事件を起こして捕まっている人が自身の考えを正当化したり、共感してもらおうとしたりする行為のこと指すのかもしれないと思った。そうした行為に対して、その考えを是としない、きっぱりと拒絶するような作者の姿勢がよい。「あなた」がいま「独房」に居るということ、それ自体が「あなた」がしたことの答えなのだよ、と言うかのような冷静な視点に惹かれた。

 

 

何十年も
何の努力もせずに
才能ないもんなあと
言っている馬鹿は
この私です

 

樹実
14p.

 

 どこまでも潔いお歌だと思う。私もよく、すごい人のお歌を見て打ちのめされ、「どうせ自分には才能がないしなあ」などと思ったりする。そうした自分をあれこれ言い訳することなく、「何の努力もせず」「馬鹿」と切り捨ててみせる思い切りの良さに清々しさを感じる。これは逆説的にほんとうに才能のない人には書けないお歌ではないか。これほどシビアな自己批評と現状認識が感じられるお歌もなかなかない。

 

 

二度手間
三度手間
たくさんの人に
かけてもらって
育ってきたよ

 

芳川未朋
21p.

 

 周りの人たちの丁寧なサポートのおかげで成長できた人物のことを詠っている。この「育ってきた」主体が作者ご本人なのか、あるいは作者の近しい誰かなのか、二通りの解釈ができそうなお歌だが、この歌の魅力はその解釈に左右されないところにある。つまり、どちらの解釈であろうと周り人たちへの惜しみない感謝が滲み出ているし、おそらくはゆっくりとしたペースで成長してきた主体のことを恥じることなく、慈しんでいることが伝わってくる。簡単な言葉でサラッと詠われているのに、読み手はしっかりとした満足感が味わえる。流石と言うしかない。

 

 

蝶々年取りゃなんになる
ボロボロ羽の蛾になるさ
蛾 年取りゃなんになる
悲しい瞳の夜鷹になるさ
夜鷹 年取りゃ石になり
ずっと黙ってそのまんま

 

三隅美奈子
63p.

 

 挑戦的で意欲的なお歌。読んでいて、着物を着た浪曲師が三味線で弾き語りをしている様子がイメージとして浮かんだ。蝶々が、蛾になり、夜鷹になり、最終的には石になるというのも普通ではありえないことなのに、寓話のような語り口と綺麗に揃えられた文字数のためか、何とも言えない説得力で読み手は納得させられてしまう。こういうお歌が発想できるのがまず素晴らしいし、文字数や行数にも試行錯誤の跡が伺える。評価されるべきお歌だと思う。

 

 

みんなの心が
ステーキのように
机に置かれているから
おいでよ
歌会へ

 

鳴川裕将
75p.

 

 歌会の魅力を絶妙な比喩で表現されていて惹かれた。「歌会へ行こう!」がテーマの五行歌コンテストがあったら、この歌が優勝作品ではないだろうか。歌会参加者の皆さんの心を、「ステーキ」というご馳走の代名詞のような料理に喩えられている点が好きだ。そうなのだ。歌会での皆さんの歌は、皆さんの心であり、読み手にとってはご馳走なのだ。4,5行目の呼びかけるような、標語のような、まとめ方も効果的。

 

 

さびしさを
病いの夫に話さず
枯れた茗荷の
茎を
抜く

 

小原淳子
128p.

 

 おそらくは実景を詠ったお歌であろう。作者はさびしさを抱えているが、それを話したい相手である夫は病いを抱えており、それを受け止める余裕がないことを知っている。そこで作者はさびしさに耐えながら、「枯れた茗荷の/茎を/抜く」のである。「枯れた」という形容詞が付いていることが、作者の抱える「さびしさ」、夫の抱える「病い」があまり軽いものではないこと暗示しているかのよう。4,5行目の改行も胸が詰まるさびしさを丁寧に噛みしめるかのような呼吸が伝わる。名作だと思う。

 

 

婿にも父親にも
大事にされる
甘え上手な娘
蹴り倒してやりたいと思う
瞬間がある

 

大本あゆみ
129p.

 

 娘さんが甘え上手であり、配偶者や父親に大事にされているというのは、決して悪いことではないだろうし、むしろ歓迎すべきことのようにも思えるが、4,5行目の書きっぷりがリアル。女性同士の目線の本音を見た気がした。かといって、この母娘の関係は決して険悪であるわけではないと思う。甘え上手な娘さんは、きっと作者である母親とも良い関係を築いているように想像する。「蹴り倒してやりたい」というのは、あくまでふと頭によぎる瞬間的な衝動であり、基本的には「上手いことやりやがって」という軽い嫉妬と頼もしさが綯い交ぜになった感情が娘さんに向けられているように感じた。

 

 

「私は生きていていいの」
愛情を受けなかった子が
一生抱える
深い闇のような
自問

 

岡田道程
162-163p.

 

 ずしん、と重いものが心に残るようなお歌だ。愛情というものが何たるかについては、私はまだ答えを持たない。ただ、40年あまり生きてきておぼろげに分かってきたことは、子供の頃に身近な人間から愛情を受けることが、その後のその人の成長において、とても大切であるということ。そして、愛情というものは、何をどれくらいをどのように与えればよいというような、具体的な目安があるものではなく、「受け手が満たされなければ充分とは言えない」という極めてあやふやで曖昧なものだと感じる。だから、みんな手探りで試行錯誤しながらやるしかないのだ。充分な愛情を与えられなかった親も、また充分な愛情を受けられなかった子供時代を過していたのかもしれない。深い闇のような連鎖を断ち切ることが出来るものは何なのか。自問を続けたい。

 

 

あり一匹一匹
協力してる
人間も
そうできたら
いいですね

 

川越市立高階中学校一年
山口晃太郞
230p.

 

 一生懸命協力して働く蟻たちを観察して書かれたお歌だろう。絶妙なシニカルさが感じられて、人間を信じたらいいのか、信じたらいけないのか、値踏みしているかのような感性に惹かれた。最近の研究では、働き蟻の中にも一定数、休憩を取っている「働かない蟻」が分かってきているとか。適度な休憩を取りながら、連携を取って協力して、一人一人が一生懸命に働く。本当に人間たちも、そうできたらいいですね。

 

 

つい、夫への愚痴を吐露した
無神経な私を
ご主人を亡くされた友は
にこやかに にこやかに
聴いてくれた

 

泉 倫子
273p.

 

 状況が容易に想像でき、うっかりと悪気なく失言してしまう場面にも共感を覚える。4行目の「にこやかに」のリフレインも効いている。穏やかなご友人の人となりがお歌から伝わってくる。作者はご友人のことを思い遣っているからこそ、自分を「無神経」と責めているのだし、ご友人もそういう性格の作者が相手だからこそ、愚痴をにこやかに聴くことができたのだろう。やさしさの連鎖のような、せつなくも温かいお歌だ。

 


(了)

【告知】ウイルスに負けるな!「第2回オンライン五行歌会」を開催します【参加者募集!】

 どうも、ひげっちです。

 

 5月4日(月・祝)に、
「第2回オンライン五行歌会」を開催します!!

 

 新型コロナウイルス(COVID-19)の影響が長期化する中、前回に引き続き楽しい会にできればと思っております。5月の大型連休中、何処にも出かけられないよ~、という方はぜひご参加ください。

 

 今回から、使用するアプリをZoomに変更し、歌会の形式としては、採点なしで、無記名の作品プリントを見ながら、コメントを言い合う形式に変えたいと思います。色々試行錯誤して、よりよい形式を見付けていければと思っております。

 

 

  • 参加要件
  1.  前日(5/3)の21時までに、自分の五行歌一首をご用意できる方。
    五行歌作品は、メールもしくはTwitterのDMにてお送りください。
    五行歌の経験・未経験は問いません。

  2.  開催時間にビデオ会議ソフト・Zoom(ズーム)をインストールしたPC・タブレットスマホ等を利用できる環境にある方。
    ※Zoomについて
    https://zoom.us/jp-jp/meetings.html
    ※Zoomは参加者の皆さんに自分の顔が見えるビデオ通話と、音声のみの通話が選べます。どちらを選ぶかは任意とします。
    ※参加者の皆さんへは当日10分前くらいにトークルームに接続するためのリンクを、TwitterのDMかメールにてお送りさせていただきます。

 

  • 開催要項

    日時:2020年5月4日(金)14時〜17時(予定)
    準備:開催時間になりましたら、Zoomに接続してお待ちください。プリントは当日の午前中を目途に、メールかTwitterのDMを通じて事前配布いたします。また、歌会中はZoomの画面共有の機能でプリントを共有する予定です。
    参加費:無料
    定員:10名(先着)
    申込み方法:
    Twitterアカウント(@hidgepaso)もしくは
    hidgepaso0713@gmail.com まで、
    参加希望の旨と、

    ①筆名(フリガナ)
    ②自作の五行歌一首

    を記載してご連絡ください。

    〆切は5月3日(日)21時までとさせてください。

    以上、よろしくお願いいたします!