ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

雑誌『五行歌』2019年10月号 お気に入り五行歌

 どうも、ひげっちです。
 
 最近、紙上歌会やオンライン歌会に出まくっているので、歌のストックが底をつきつつあります。引きこもりまくりで、時間はあるのですが、ひらめき不足で、なかなか新しい歌ができません。でも、〆切に追われる日々というのも未体験で、少しワクワクする気持ちもあり、心細くもありますが、楽しいです。
 
 2019年10月号のお気に入り五行歌を紹介させていただきます。
 
 
創りながら
壊している
ほんとうの姿が
まだ
見えないから
 
永田和美
8p.
 

 

 大いに共感し、また勇気付けられたお歌。作者ほどの方でも、まだ自分のほんとうの姿というものは見えないのだな、と素直に感動した。創りながら壊すというのは、表現活動の基本である試行錯誤を指しているのだと読ませていただいた。私から見れば、すでに作者は確固たる作風を確立されているように思えるが、現状に満足することなく創作に向かう姿勢が、大きな刺激になった。
 
 
 
 
遺書にすら
検閲のあった
あの時代
特攻隊員の本音は
潮騒の中
 
いぶやん
18p.

 

 筆者は、特攻隊のことを取り上げたテレビ番組か何かで、年端もいかない少年達による「お国のために死んできます」というような立派な遺書が紹介されているのを見て、素直に「すごい」と思ってしまったが、よく考えてみればこのお歌の通り、遺書にさえ検閲のあった時代であったのだ。彼らの遺書の言葉を額面通りに受け取って、特攻隊を美談にするような行為は危険だと感じた。本当は「怖い」「逃げたい」「帰りたい」といった本音を抱えていたかもしれない彼らを、英霊ではなく、ひとりひとりの人間として認識することで、改めて平和の尊さが真に感じられるように思う。
 
 
 
 
の娘 の妻
の母 の祖母という
ペルソナ取れば
カオナシの私の
眠る真夜中
 
三隅美奈子
20p.

 

 人間は、各々の社会的役割を拠り所にして生きる動物であるということに男女差はないと思われるが、女性の場合、家庭内での役割が男性に比べてより重要視されやすいという現実があるのだろう。そのペルソナと自分を切り離したときに、作者は自分のことを「カオナシ」と詠う。これは、筆者がそれだけ家庭の中での役割を懸命に果たしてきたことの証左だと思う。同時に、自分本来の願望・想い・価値観などを必死に我慢し、抑えてきた悲哀も感じる。作者の境遇と重なる部分は多くはないが、歌を通じて作者の想いが想像できる。名歌とはこういう歌を言うのだろう。
 
 
 
 
友が
死んだ
ぐんぐん ぐんぐん
炎天を
歩く
 
秋山果南
23p.

 

 3行目の「ぐんぐん ぐんぐん」が秀逸。友が亡くなって、打ちのめされそうになる気持ちを必死で堪えようと、せめて歩調だけは力強くあろうという感情が伝わってくる。左右対称の形も綺麗で好み。友が自分にとってどういう存在であったかの描写はないものの、故人が大切な存在であったことが読み手に伝わる。
 
 
 
 
そのままに
在ればいい
歌一首
逃げ隠れできない
自分なのだから
 
酒井映子
42p.

 

 

 

 圧倒的な説得力。なかなかこのお歌の境地には達することができないので、色々と小手先で何とかしようとしたり、自分を取り繕ったりしてしまうが、歌には嘘はつけないということだろう。作者の歌を読むと、いつも「歌は背骨である」と思わされる。生き様というか、生きる姿勢が書く歌に表出するものだと感じる。大切にしまっておいて、時々読み返したくなるようなお歌だ。
 
 
 
学校でのイジメ
会社でのパワハラ
介護施設での虐待
イバラの道の日本人
 
110p.

 

 イジメやパワハラや虐待は、何も日本人だけに限ったことではないだろうが、何となく日本ではそういった行為が陰湿化しやすいイメージがある。村社会の処世術が染み付いているせいか、自分が標的にされないために、あるいは自分達のストレスの捌け口のために、イジメやパワハラや虐待をどこかで容認してしまっている人も多いだろう。ニュースで見る他人事ならともかく、実際の現場にいたときに声を上げてこれらに「NO」を言える勇気がある人がどれだけ居るか。少なくとも私にはその勇気はない。そっと見て見ぬふりをする自信がある。5行目のまとめ方に、現実に対する諦観や憤怒とはまた違う、作者ならではの視点が感じられて惹かれる。
 
 
 
 
人気のタピオカドリンクに
三時間並ぶ少女たちの
知らない所で
水汲むために八時間も
砂漠を歩く少女がいる
 
嵐太
128p.

 

 タピオカドリンクという流行り物を取り入れた対比がお見事。事実のみを冷静に伝えて、何を感じるかは読み手に委ねるような淡々とした筆致が効果的だと思う。頭ごなしにタピオカ好きの少女達を否定していないところが好きだ。正しいこと、立派なことを述べる時には、その言い方・伝え方に注意しなければならないとつくづく感じている。相手の痛いところを突くような指摘は、あくまで丁寧に、高圧的にならないように伝えないと、相手の反発を招きかねない。その点、このお歌のスタンスは理想的ではないか。そっと事実を伝えて、読み手の気付きを促す。作者の人間性が伝わるお歌だ。
 
 
 
 
生を死が呑み込む前に
命は 命を
命に 手渡す
個体には死が
命には永遠が
 
岡田道程
145p.

 

 少々難解なお歌である。特に2,3行目の解釈が分れるところだろう。親から子、子から孫へと遺伝子やDNAを繋いでゆく、といった意味合いであるようにも取れるし、あるいはもっと観念的な意味合いで、命の神秘さについてのお歌のようにも思える。つまり、肉体というのは生命にとってあくまで容れ物に過ぎず、個体が肉体的な死を迎えても、命そのもの(あるいは魂のようなもの)は、新たな肉体へと受け渡されていき、生命自体は永遠と呼ぶべきものなのかもしれない。輪廻転生という言葉があるが、そういった世界観を連想した。完全に理解できたとは到底思えないが、とても惹かれるお歌だ。
 
 
 
 
一瞬で
ふきこぼれる
素麺に
集中力を
試されている
 
玉井チヨ子
217p.

 

 何気ない日常を切り取った描写が鮮やかで、非常に魅力を感じる。麺類の中でも短い時間で茹で上がる素麺は手軽で美味しいので、筆者も一人暮らしの時にはよく食べていた。沸騰したお湯の中に素麺を投入すると、一瞬、沸騰が静まるものの、このお歌の通り、ちょっと油断するとあっという間に吹きこぼれるのだ。まさに4,5行目の通り、集中力が試される場面だ。共感を覚えるとともに、些細な家事もきちんとこなそうとする姿勢に敬意を覚えた。
 
 
 
 
『あなたって
  そういう人よね』
はい
そういう人には
そういう人です
 
つるばみ
306p.

 

 「そういう人」が3回もリフレインされる、面白い歌。そういう人が具体的にどういう人であるかの説明はないものの、「そういう人」という言葉自体が持つどちらかと言えば否定的な「含み」のようなニュアンスと、お歌の文脈から、読み手はこの会話を交わしている二人がお互いにあまり好意的なイメージを抱いていないことを感じ取れる。人付き合いは鏡のようなもの、とよく言われるが、こちらが相手に悪意を抱いていると、それが相手に伝わり悪意を返されることが多い。もちろん、逆もまた真なりである。4,5行目のサバサバとした物言いが心地よく、痛快。
 
 
(了)