ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

【告知】ウイルスに負けるな!「オンライン五行歌会」を開催します【参加者募集!】

どうも、ひげっちです。

 

突然ですが、今週土曜日(3/7)に、
「オンライン五行歌会」を開催します!!

 

毎日毎日、新型コロナウイルス関係のニュースばかりでうんざりしますね。今週末も楽しみにしていた予定をキャンセルして、家で引きこもることになりそうなのですが、ふとオンラインで五行歌会を開いてしまえば良いのでは?と思いつき、早速実行することにしました。

 

ウイルス騒ぎでどこでも行けずに、お暇しているという方はぜひご参加を。こんな時だからこそ、歌会で楽しい時間を共有して、免疫力アップに繋げたいですね。オンラインでの歌会主催は、初の試みなので、不慣れな点もあるかと思いますが、楽しい会にしたいと思いますので、お気軽にご参加いただけたら嬉しいです。

 

  • 参加要件

1. 前日(3/6)までに、自分の五行歌を一首ご用意できる方。

2.開催時間に無料通話ソフト・Skypeスカイプ)をインストールしたPC・タブレット等を利用できる環境にある方。

五行歌作品は、メールもしくはTwitterのDMにてお送りください。

五行歌の経験・未経験は問いません。

Skypeについて(参照)

https://support.skype.com/ja/faq/fa11098/skype-noshi-ishi-mefang-wojiao-etekudasai

 

  • 開催要項
  • 日時:2020年3月7日(土)21時〜23時(予定)
  • 準備:開催時間になりましたら、Skypeに接続してお待ちください。プリントはメールかTwitterのDMを通じて事前配布いたします。
  • 参加費:無料
  • 定員:10名(先着)
  • 申込み方法
    Twitterアカウント(@hidgepaso)もしくは
    hidgepaso0713@gmail.com まで、

    参加希望の旨と、
    ①名前(フリガナ)
    Skypeのユーザ名
    五行歌作品1首
    を記載してご連絡ください。

 

※3/5追記

Skypeの通話は音声のみの通話を想定しております。

・人数が少なめの場合は、採点制ではなく匿名のお歌に対して自由にコメントを言い合う形式にすることも考えています。

・3/6の24:00の時点で、申込を締め切ります。

 

以上、よろしくお願いいたします!

雑誌『五行歌』2019年8月号 お気に入り五行歌

 どうも、ひげっちです。ここのところ、新型コロナウイルス関係でイベントの中止や外出自粛などの動きが広まっています。私の参加したことのある歌会でもいくつか中止の動きがあり、先行きの見えない不安もあって、どうにもこうにも気分が塞ぎがちですが、引きこもりをこれ幸いと、五行歌を書きためつつ、乗り切ってまいりましょう。
 
 遅くなりましたが、2019年8月号のお気に入り五行歌を紹介いたします。
 
 
「誠実」とか
「真剣」とかは
重いのかもしれない
捨てている人を
たまに見る
 
永田和美
9p.

 

 誠実さや真剣さを大事にして生きることは、確かに大切ではあるが、そうしていると自分に正直で居られる反面、誰かの些細な言葉に傷付きやすかったりする。それならば、「建前」や「体裁」を前面に出して生きるほうが、剥き出しの自分を触られることがない分、傷付きにくかったりする。たまに見る、どころか日常生活上では、「誠実」や「真剣」を捨てている人のほうが大半ではないだろうか。だが、大切な人や場面に直面した、ここぞという時であれば、話は別である。普段は引っ込めていてもいい「誠実」や「真剣」も必ず必要となる場面がある。そんなことを感じさせていただいたお歌。
 
 
教室に入れない子の
描く漫画を
黙って見ている
わたしも
寂しかった
 
小原淳子
10p.

 

 「教室に入れない子」へのあたたかな視線が感じられる。単なる共感ではなく、その子とかつての作者ご自身とを重ねられているかのよう。慰めや励ましの言葉をかけるのではなく、「黙って見ている」というスタンスが良い。そこからご自身の感情を吐露されている四、五行目が秀逸。こういう心持ちの大人がそばに居てくれるだけで、「教室に入れない子」はどれだけ救われていることだろう。
 
 
人に優しく
なりすぎた
社会に
馴染めない
私の優しさ
 
荒木雄久輝
14p.

 

 さりげない皮肉の効いた名作だと思う。「人に優しくなりすぎた社会」という表現で、パッと浮かんだのは「順位をつけない運動会」や「全員が主役の学芸会」など学校関係のことだが、こうした優しすぎる配慮は、本来ならばその場で主役となれる子の輝ける機会を奪うだけでなく、主役になれなかった大勢の子たちが、「じゃあ自分が主役となれる場所や機会はどこなのか」と自問自答するための契機をも奪ってしまっているという点で、子供たちを逆にスポイルしてしまっていると思う。成長は挫折や軋轢から生まれるのであって、生ぬるく弛緩した空気から生まれる訳では無いのではないか。作者の考える優しさというものをぜひ伺ってみたい。
 
 
私はたい焼き
型から漏れないように
がんばった
最近の人気は
外のカリカ
 
山崎 光
24p.

 

 往年の名曲『およげ!たいやきくん』を彷彿とさせる。型に嵌まった人間としての比喩がたい焼きというのが面白い。せっかく努力して型に嵌まったのに、持て囃されるのは外のカリカリだという。「個性を大切に」と言いながら、型に嵌めようとする教育への皮肉も見て取れる。しかも人気があるのは、あくまで「外側」「外見」であって、肝心な自分の餡子の部分、つまり「内面」を評価して貰えないことへのフラストレーションも感じる。一見面白いお歌のようだが、読み解くほどに苦悩のようなものが感じられる味わい深いお歌だ。
 
 
悪い時代だからこそ
気高くと
きっぱり
娘に
諭される
 
西垣一川
26p.

 

 娘さんとの良い信頼関係が伝わってくる。悪い時代に流されるのは簡単だが、それを是としない誇り高さ。損得勘定だけを考えれば、時代に乗った方が良い面もあるのだろうが、目先の損得よりも大切なものがあることを作者や娘さんは知っているのだろう。正直なところ、悪い時代に流されまくっている筆者であるが、このお歌を目にして心が洗われる思いがした。
 
 
枝は
幹を育てる
人は
自分のうたで
育っている
 
中野忠彦
30p.

 

 枝は幹から生えるものなのに、「枝が幹を育てる」という表現が意外で目を引いた。だが、よく考えれば確かに、伸びた枝葉が太陽の光を浴びて光合成を起こし、その栄養を幹に還元しているわけで、実に的を射た表現である。そこから、人とうたとの関係へ飛躍させた三~五行目が素晴らしい。うたを書くことは自分と向き合うという面もあり、そのことが自分を成長させてくれるということは、実感として確かにある。自分の中に大事にしまっておきたいタイプのお歌である。
 
 
出れば
出なければ
悔い
たんこぶ覚悟
 
山碧木 星
32p.

 

 言葉遊びのようでいて、自らを鼓舞しているようでいて、実は大事なことを言っているような、軽妙さが心に残る。何かを表現すれば、批判を受けたり、叩かれたりということは避けられない。かといって、表現したいものを抱えながら、それを表現しないままでいるのも後悔が残る。「たんこぶ」という絶妙に可愛くて、絶妙に脱力しているワードを持ってきた五行目が秀逸。大好きなお歌である。
 
 
つまりは
引き受けるしかないのだ
それぞれの
比較しようもない
痛みというもの
 
伊東柚月
93p.

 

 一、二行目の導入から、グッと読み手の心を掴んでくれ、後半で皆が納得できるまとめ方をしている、格好の良いお歌である。この場合の痛みというのは、恐らく身体的なものではなく、精神的なもの(=心の痛み)を指すものとして読ませていただいた。よく、悩みを抱えている人に対しての陳腐な励ましの言葉として、「アフリカの飢えた貧しい子供たちに比べれば、今のあなたはご飯も食べられて温かい布団で寝られるんだから恵まれている」などと言われたりする。確かに一理はある励ましだが、個人的にはこの手の励ましは大嫌い。いつの時代にもその時代を生きる人間なりの悩みや痛みがあるもので、一様に他の国や時代と比べられるものでは無い。そもそも、「かわいそうな状況」の代名詞として引き合いに出されるアフリカの子供たちに失礼というもの。少し話が逸れてしまったが、結局はこのお歌が言うとおり、自分オリジナルの痛みと向き合い、引き受けるしかないのだと思う。他人との比較から解決のヒントは貰えるかもしれないが、決して答えはそこにはない気がする。
 
 
思いっきり
派手なメガネ
少し気が引けた
だあれも
気が付かない
 
山田逸子
100p.

 

 身に覚えがあることを上手にお歌にされていて、惹かれた。身に付けるものや髪型を変えたときなど、自分にとっては大きな冒険であるが、周りの反応が無かったりすると、ガッカリするもの。勇気を出して選んだメガネなのに、誰からも何も言って貰えず、そもそもメガネを変えたことにも気付いて貰えない落胆ぶりと、メガネを選んだときの自分の逡巡ぶりが少し恥ずかしくなってくる様子が伝わってくる。しかも、ここから先は邪推かもしれないが、「他人から見れば所詮自分も他人のうちの一人なんだから、自意識過剰にならずに堂々と自己主張すればよい」というような前向きなメッセージも感じられるところが好きだ。
 
 
云いたいことは
わかってる
わかってるけど
泣き止むまで
体温をちょうだい
 
稲本 英
146p.

 

 ストレートな表現に惹かれた。相手の意図を汲むことができるくらいには冷静であるが、それでも泣き止むために、相手の体温を必要としているというところがいい。自分の強さと弱さを充分に把握し、分別をもった大人にしか書けないお歌だと思う。シチュエーションや背景をあえて省いて「あなたを必要としている」という点にフォーカスを絞ったところが、色々な想像を膨らませられる余地を残し、訴求力のある作品になっている。
 
 
花を生け
香をたく
供養とは
残されたものへの
いたわり
 
井椎しづく
194p.

 

 作者ご自身に起こったことを知っている身としては、弔意を感じつつ、大いに共感したお歌。近しい肉親を亡くされた時のお歌だろう。故人への供養が、故人のためではなく、むしろ残されたものへのいたわりであると詠われている。儀式とか供養というものの本質を言い当てていると思う。宗派は違えど、聖歌やお経の類いも唱えるものの精神を平静に保つためのものであろうし、上手く泣けない人にとっては、泣くことの代償行為として、それらが機能している面もあるだろう。祈りも、弔いも、本質的には残されたものの心の平穏のためのものであり、「故人のいない明日」を生き抜くための一つの区切りを設けるためのものであろう。大切なことに気付かせてくれたお歌だ。
 
 
(了)

雑誌『五行歌』2019年7月号 お気に入り五行歌

 このブログをご覧の皆さま、あけましておめでとうございます。ひげっちです。昨年の初めにブログを始めて、約1年が経ちました。ここまで続けてこれたのも、色々な形で反響をくださった皆さまのおかげです。

 

 1月11日には、2020年関東新年合同五行歌会に参加してきました。お久しぶりな方、初めましての方、いつもお世話になっている方など、色々な方々にお目にかかれて嬉しかったです。全体歌会の方は相変わらず泣かず飛ばずでしたが、小歌会では2席になることができて、嬉しかったです。ご一緒した方々、ありがとうございました!

 

 さて、だいぶ間が空いてしまいましたが、2019年7月号のお気に入り作品を紹介させていただきます。

 

善いことをしても
してなくても
二時間で
人は
灰になる

 

佐々野 翠
14p.

 

 火葬場にて着想を得られたお歌だろうか。そうすると作者は身近な方の死を体験されたのであろうが、そのことに対する作者自身の感情がほとんど伝わってこない、淡々かつあっけらかんとした筆致がこのお歌の魅力だと思う。生前、善い人間であろうとなかろうと、物理的に人間は燃やせば2時間で灰になるという事実。果たしてそのことは作者にとっての救済なのか、あるいは受け入れがたい現実なのか。考えさせられる余地と静かな余韻がある名作だと思う。

 

トップは
孤独なもの
きょうも一人で
社食のうどんを
啜る

 

嵐太
23p.

 

 サラリーマン社会では、アゴで使われる平社員も、上司と部下の板挟みになる中間管理職も、嫌われ役をこなしつつ様々な事項について判断を下さないといけない管理職も、それぞれに悲哀があるもの。基本的にいつの時代も組織の中で偉くなればなるほど、孤独になっていくのが常。作者自身が会社のトップで在られるのか、あるいは社員食堂でうどんを啜るトップの方を見かけての歌なのかは判断がつきかねるが、会社生活の一コマを上手く切り取った作品であり、一社会人として惹かれた。

 

こころとことばが
くっついている
こどものことば
やがて はがれて
おとなの言葉に

 

世古口 健
38p.

 

 これはもう発見と言ってもいいくらい「ひとつの真実」を言い当てているお歌ではないか。子供の言葉には、その一つ一つに「ああしたい」とか「こうしてほしい」とかいう気持ちがシールのようにくっついている。欲求や願望と言い換えてもいい。赤ちゃんの泣き声に「おなかすいた」や「ねむい」といった欲求が隠れているのと同様に、幼い子供は自分の欲求や願望を親や周りの大人に叶えて貰うことを目的として言葉を発する。大人になるにつれて「こころのシール」が剥がれた言葉を使うようになるが、注意深く見ていくと大人の言葉にもわりと心がくっついている時も多いのかもしれない。そんなことを考えさせられたお歌。

 

誰にも
叱られない処に
隠れていると
腐って
しまうのだよ

 

芳川未朋
44p.

 

 誰も自らすすんで叱られたくはないが、腐らないためには、叱られる状況に身を置くことも大切だとこのお歌は詠っている。「叱られない処」が、具体的に何を指すのかは読み手によって変わるだろう。個人的にはパッと不登校や引きこもりのようなイメージが浮かんだが、単純にそれらを批判しているようなお歌であるとは思えない。間違っているかもしれないが、独善的な読みが許されるなら、「叱られない処に隠れている」とは、「表現活動を行っていながら批判を恐れてそれを外部に発信しない人」の比喩ではないかと考えている。自分の創作したものを発信しなければ、批判を受けることもないし、他の誰かと比べられることもない。自分でひそかに趣味として楽しむために創作するというスタイルもありだろう。ただ、それは外部からの刺激を受けることもなく、表現者として成長するスピードも遅くなってしまう。批判を恐れずに、同好の士と切磋琢磨することの大切さを説いているお歌なのではないかと感じた。

 

どこかで
自分を
認めているから
なんとか
生きている

 

風子
137p.

 

 「どこかで」と「なんとか」の使い方が上手い。作者はきっとご自分に対して厳しい視点を持っている方なのだろう。具体的にご自分のどこを認めているのかには言及しないところが奥ゆかしくて好きだ。そうやって自分をどこかしら認めているからと言って、生きるのは簡単ではなく、やっとこさ生きているというような表現。これがまたいい。自己肯定感の低さと不器用さが滲む。自分のストロングポイントを自分で認識し、それを上手くセルフプロデュースしている人も魅力的だと思うが、個人的にはこういった慎ましやかな人に共感したくなる。

 

つぶあん
言ったでしょうよ
こしあんだって
あんパンでしょ
大切な夫婦喧嘩

 

窪谷 登
166p.

 

 とりとめのない夫婦のやりとりがあたたかく、面白い。「つぶあん」と「こしあん」の違いにこだわるところも微笑ましくて好きだ。筆者はどちらでも美味しくいただく派だが、違いが気になる人も確かに存在するようだ。そこから夫婦喧嘩が始まってしまうわけだが、五行目に「大切な」とあるため、これは夫婦喧嘩と言いつつも、実質はこのご夫婦のいつも通りのやり取りであり、決して深刻なものではないことがわかる。むしろ、作者はこうした夫婦間のコミュニケーションに価値を見出しているのであり、喧嘩の話かと思ったらのろけ話だったかのような、「心配して損した、ごちそうさま」という気持ちにさせる軽妙なお歌だ。

 

「運」に
寄りかかれば
倒れる
あくまでも
道標

 

中野忠彦
178p.

 

 納得させられるお歌である。「運」というのは不思議なものだと思う。苦難や困難の最中に幸運に救われたというような経験もしたことがあるが、かといってそうした幸運を頼ったり、甘えたりしてはいけない。幸運を、「あって当たり前」と思った瞬間、運というのは逃げていくような気がしてならない。四、五行目の「あくまでも/道標」という表現が非常にすとんと胸に落ちる感じがする。

 

わたしは
人間ではないような
気がする
ときどき人間に
もなるが

 

今井幸男
204p.

 

 自分の姿というものは鏡越しでなければ、自分で見ることができない。それゆえに人間の中で暮らしながら、自分だけは人間ではないのではないかという疑念は、古今東西、様々な表現者が向き合ってきたテーマであると思う。ある意味、使い古されたテーマでありながら、この歌が新しさと説得力を持っているのは、四、五行目の「ときどき人間に/もなるが」という自由さと、作者のキャラクターの為せる業かもしれない。

 

メンタルは
豆腐並みなんだって
弱いけど
柔らかいなら
良し

 

唯沢 遙
207p.

 

 「豆腐並みのメンタル」とは、精神力が弱いことの比喩としてよく使われる表現だが、それを逆手にとって豆腐ならではのストロングポイントを主張する後半三行が見事。まさしく柔軟性がキラリと光るお歌だ。私もメンタルが強い方では無いので、こんど自分の気持ちが折れそうになったら、この歌のことを思い出して、乗り切りたいと思う。弱くても、カチカチに固まった心より、柔らかい心を持ちたい。

 

自分が
燃えて
自分の
居場所を
照らす

 

伊藤赤人
215p.

 

 「天辺の歌人たち」より。寡聞にして作者のことをこの記事を読むまで存じ上げなかった。抜群の歌の良さに、がつんとやられた気分になった。記事ではいくつかのお歌が取り上げられていたが、中でもこのお歌に惹かれた。歌には生き様が滲み出る。自分が果たしてここまでの覚悟と自負を持って、歌を書いているのか、と自問自答せずにはいられなかった。今はまだ未熟で甘っちょろい私だが、いつか作者のような歌を書いてみたい。

 

誰かにとって
特別な人で
ありたい
症候群
です。

 

いわさきくらげ
220p.

 

 独特な文体と世界観が魅力な作者。短く簡潔な言葉を使いながら、読み手のイマジネーションを膨らませるようなお歌が多く、その才能に注目している。このお歌も簡単なことを詠っているようで、なかなか一筋縄ではいかない。誰かにとって特別でありたいというのは、多くの人が思っている自然な感情のように思うが、そこにポンと置かれた「症候群」という言葉、これが効いている。人間としての自然な感情が、病名を表すような仰々しい言葉と合わさることにより、色々な想像が膨らむ面白いお歌になっている。行が進むにつれて、だんだん小声になっていくかのような、文字数の並びも効果的。

 

「ピカにおうとらんのなら
だまっときんさい」
引き揚げ体験は
小学二年で
封印された

 

ともこ
275p.

 

 「戦争と五行歌」より。終戦後の朝鮮からの引き揚げというこの世の地獄を体験しながら、引き揚げ先が被爆地・広島だったことから、それを誰かに伝えることさえ許されなかった過酷な運命。想像を絶するような苦しみだと思う。命が粗雑に扱われる戦争の恐ろしさは歳を重ねるほどに身に染みて分かってくる。多種多様な価値観はあって然るべきだと思うが、戦争だけは肯定してはならないと強く思う。

 

生きるために と
飲みこんできた
女たちの物語は
寿ぎのかげで
今も地を這っている

 

宮崎史枝
299p.

 

 見過ごすことができなかったお歌。色々な解釈が成り立ちそうなお歌であるが、筆者は男性中心の社会に対する警鐘と、押し込められてきた女性たちのしたたかさを強く感じた。後半三行は出色だと思うが、「女たちの物語」と詠うことにより、一個人の女性というより、同時代を生きる多くの女性、あるいは世代を跨いだ幾人もの女性たちのことを指しているように感じられた。男性優遇の社会の裏で、我慢を強いられている女性が数多くいるという現実。目を背けてはいけない何かを伝えてくれているお歌だと思う。

 

樹木希林
いない日本映画は
キリンの
いないサバンナよりも
さみしい

 

漂 彦龍
310p.

 

 作者ならではの映画愛滲む名作。「希林」と「キリン」がかかっていることにクスリとさせられつつも、樹木希林さんへの等身大の追悼歌にもなっている。私はわりと晩年の希林さんしか存じ上げないが、清濁併せ呑んだ老婆を演じさせたら、右に出る者はいなかった印象だ。あの方にしかできない役が今までにも、これからにもたくさんある気がしてならない。

 

<恐怖>
子供 僕は幽霊が怖い
妻  私は戦争が怖い
夫  僕は女性が怖い
幽霊 私は人間が怖い

 

巨橋義顕
324p.

 

 実験的な作品であるが、個人的にはとても好み。一行目をタイトルに使うという発想がまず面白い。内容もよくできた絵本や寓話みたいで、気が利いている。このフォーマットを使って、一首書いてみたくなった。まだまだ五行歌は色々な可能性があり、試されていないことが多くあるのかもしれない。そんな気持ちにさせてくれたお歌だ。

 

 (了)

2019年自分的ベストコンテンツ

どうも、ひげっちです。

2019年ももうすぐ終わりなので、

毎年恒例の自分的ベストコンテンツを書き記しておきます。

音楽・曲

LINDY/中村佳穂


中村佳穂 "LINDY" うたのげんざいち 2019 in STUDIOCOAST

 今年新しく知って、今年一番聞いたであろうアーティスト。生演奏も二度ほど見ることができました。自由奔放さと精密さが高次元で融合しているような、唯一無二のステージング。そして新しさと同時にどこか懐かしさも感じられる人懐っこい楽曲達。今年リリースされた配信限定の3曲のシングルの中で最も好きな曲を選びました。無謀にもカラオケでも歌います。誰にも聴かせられないレベルではありますが、歌っててめっちゃ気持ちいいです。

 

音楽・アルバム

Attitude/Mrs.GREEN APPLE

Attitude(通常盤)

Attitude(通常盤)

 

 今年から音楽のサブスクリプションサービスを利用し始めたのですが、そこで聴いてハマったのがこのアルバム。彼らのことは前から知ってはいましたが、熱心なリスナーではありませんでした。最新アルバムを聴いて、その完成度に度肝を抜かれました。どの曲にも思わず口ずさみたくなる発語の快感を伴ったキャッチーさがあり、歌詞にも衒い無くまっすぐ人の心に届くことを前提にした言葉が選ばれています。『Attitude』、『青と夏』、『ロマンチシズム』は特に何回もリピートしました。

 

映画

グリーンブック/ピーター・ファレリー監督

gaga.ne.jp

 大好物の塊のような映画。ロードムービーですし、相反する主人公二人の交流ものですし、人種問題に対して多くのことを考えさせられる作品ですし。練りに練られた脚本と役者陣のツボを心得た演技で、作品にぐいぐい引き込まれます。名シーンの連続で、気が付いたら上映が終わっている感じ。どこから食べても美味しいお菓子のようです。今後も折に触れてくり返し観ることになりそうな予感がします。

 

来年もたくさんの大好きなものと出会えますように!

 

(了)

中村佳穂について(再会と再考)

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studio coast名物の看板

 

 

 

はじめに

 12月10日、新木場studio coastにて、中村佳穂さんのライブ「うたのげんざいち2019」に参加してきました。佳穂さんのライブを観るのは2回目。5月の横浜のGREENROOM FESTIVAL以来でした。会場は大入りで客層もさまざま。広い年齢層の支持を集めつつあるのだなあ、と感じました。セットリストは「AINOU」の曲を中心にしながらも、新曲やゲストの石若駿さんとのセッションをちりばめた、意欲的なもの。濃密でスリリングな中村佳穂ワールドを心ゆくまで堪能することができ、5月に感じたのと同じような衝撃を、より洗練された形で感じることができました。

 

圧巻の中村佳穂ワールド

 とにかく、中村佳穂さんは演奏中に、演奏中とは思えないくらい、楽しそうでかつリラックスしているように見えます。自分たちのバンドが生み出している音楽を、自分たち自身が最前列で聴くのを楽しんでいるかのようです。自由で開放的な雰囲気と、次に何が起こるか分からない緊張感が、中村佳穂さんのライブにはあります。佳穂さんは良い意味で、本当に好き放題やっているという感じがして、その姿はまるでつい最近音楽の楽しさに目覚めた子供のようです。そういった姿に、表現者の端くれとして、非常に大きな刺激を受けます。「あんなに自由で奔放な表現が多くの人に受け入れられているのは羨ましい。自分もああなりたい」と、そんな想いを抱かせる方です。

 

表現者のジレンマ

 表現者というものは、自分の「表現したいもの」と、時代や流行が「求めるもの」とを如何にマッチさせるかを常々考えているものです。表現のクオリティがどんなに高くても、時流にそぐわないものであれば、多くの人に受け入れられるのは難しく、その表現に掛けた時間やエネルギーに見合うだけの対価を得ることもできません。ごくたまに表現者の「表現したいもの」がそのまま、時代が「求めるもの」に一致し、絶大な支持を得ることもあるでしょう。しかし、そんな人はごく少数派です。なので、表現者たちの中には時代と懇ろになるために、自らの「表現したいもの」を時代や流行にマッチするように修正・微調整する人もいます。いわば、時代の顔色を伺い、媚びを売る行為です。もちろん、求めてくれる人がいなければ、表現行為じたいがたたの独りよがりになってしまいますから、そういった行為を決して否定しているわけではななく、むしろ、売れるための健全な行為であるとさえ思います。

 

とある懸念

 話がだいぶ逸れましたが、中村佳穂さんからは、この「時代への媚び」をまったくと言っていいほど感じないのです。「私は好き放題やるから、むしろ時代のほうが付いてこい」と言わんばかりの矜持を、佳穂さんからは感じます。もしかしたら、本当に中村佳穂さんの音楽は21世紀の日本には早すぎる音楽なのかもしれません。というのも、今回のライブは確かに素晴らしかったのですが、感動と同時に、客席とステージ上との、ある種の温度差も感じられたからです。ステージ上の中村佳穂さんたちバンドは、本当に開放されてのびのびと演奏していましたが、観客は今までに体験したことのない類いの演奏とステージングであるがために、どうリアクションして良いのか分からず、戸惑いと共に呆然と立ち尽くしているというような方もチラホラ見かけました。演奏者たちが楽しむのはもちろん大切なことだと思いますが、それが行き過ぎると、内輪ウケや楽屋オチのような状態になり、置いてけぼりにされる観客が出てくる恐れがあるのかもしれません。

 

変わるべきなのはどっち?

 かといって、中村佳穂さんに、もっと分かりやすい、大衆にウケるような音楽を作って欲しいという言う気は毛頭無くて、変わるべきなのはむしろ観客であり、受け取るサイドなのだと思います。観客は自分たちに媚びを売ってくる表現に慣れすぎてしまい、主体的にアクションを起こして自分たちから楽しみ方を見つける姿勢が足りないのではないでしょうか。中村佳穂さんは演奏中に「Trust you」とくり返し言っていますが、それに見合うだけの信頼を我々は演奏者たちに向けられているでしょうか。野球に例えるなら、彼女は間違いなく160kmの速球を投げられるピッチャーです。しかし、ゲームが成立するためには、その速球をちゃんと受け止められるキャッチャーが居なくてはなりません。そうでなければ、せっかくの速球もすべて暴投になってしまいます。心を開くべきは、演奏者ではなく、観客側なのかもしれない。そんなことを感じたライブでした。

 

(了)

第29回五行歌全国大会 in いわて 参加レポート

どうも、ひげっちです。

もう2週間前になりますが、去年のさいたま大会に続き、今年も「五行歌全国大会」に参加してきました。

 

五行歌全国大会」は、毎年日本各地で持ち回りで行われています。今年の開催地は岩手・盛岡でした。大会は3部構成で、11/10(日)のお昼に歌会、夜に懇親会、翌日の11/11(月)の午前中に研究会が行われました。

 

私は月曜に仕事が休めなかったため、残念ながら懇親会と研究会は不参加で、日曜の歌会のみの参加となりました。その代わり、前日の土曜から盛岡入りして、岩手観光をしたろうと画策し、実行に移したのでありました。

 

前日・岩手観光の巻

 盛岡へ行くのは、6月の文学フリマ岩手以来、今年で2回目。その時に知り合って色々お世話になった宮古のよしだ野々さんが、今回も宿の手配や車での送り迎えなどを申出てくれたので、喜んでお言葉に甘えることに。ありがたいことです。持つべきものは五行歌人の友ですね。

 

そんなわけで、「午前中に盛岡入りしてね」という野々さんのリクエストに応えるべく、早起きして新幹線で盛岡へ。

 

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はやぶさ(写真とるの下手くそ)

 

新幹線に乗ってしまえば、意外と近い東北。

10時半過ぎには盛岡に到着。同じ電車に乗っていた東京の観月さんと合流し、野々さんとも再会を果たしました。

 

野々さんの車に乗り込んで、まずは一路、石川啄木記念館へ。

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石川啄木記念館

石川啄木の「あまりかっこよくはない」生涯を知ることができる、よい記念館でした。不勉強なひげっちなので、石川啄木については詳しくないですが、それでもいくつかの代表作は諳んじることができます。明治生まれの歌人なのに、あまり古さを感じさせない、普遍的な作風が魅力のひとつなのかなあ、などと思ったりしました。等身大の石川啄木人形があったりして、観月さんと一緒に写真を撮り合ったりもしましたよ。

 

その後は、石川啄木ゆかりの地をいくつか見て回りました。

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啄木の歌碑

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岩手山を望む

 

お昼ごはんは、「びっくりドンキー」の1号店である「ベル」というハンバーグ屋さんでいただきました。漢飯という感じで美味しかったです。近所にあったら通うだろうな。食事のあとは観月さんと別れ、男二人で平泉の中尊寺へ。車でも一時間くらいかかる道程。野々さん、運転ありがとうございました。

 

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中尊寺

中尊寺は古い寺社仏閣特有のキリッとした空気が漂う、いいところでした。

境内の紅葉も見頃で、良い感じ。

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境内の紅葉

このあとは、金色堂もじっくりと見ました。

金色堂はすごかった。成金趣味じゃ無いけど、ずっと見ていても見飽きない。

金ピカの迫力があった。

 

盛岡に帰って、ホテルにチェックインしたあと、野々さん、観月さんに新たに合流した鹿児島の秋葉澪さんを加えた4人で夕食に。ホテルのそばの居酒屋で飲み食いしました。つまみがどれも安くて美味しい!盛岡良いとこです。健康的な時間にお開きにして、ホテルへ戻りました。そのあとは持参した本誌を読み進めたり、コンビニへ行ったりしてだらだら。23時くらいに就寝。

 

大会当日の巻

明けて日曜、大会当日となりました。野々さんは大会運営の手伝いのため、この日は別行動。ホテルのロビーで新たに東京の旅人さんと合流しました。午後の大会まではまだ間があったため、ちょうど盛岡でやっていた「五行歌巡回展」の様子を見に行くことに。タクシーで相乗りして会場に向かいました。

 

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巡回展の一コマ

巡回展は多くの人で賑わっていて、大盛況でした。マスコミの取材も入ったようで、カワイイ置物が置いてありました。 東京の漂彦龍さん、埼玉の唯沢遙さん、広島のともこさんとご挨拶ができました。自分の作品パネルとも久しぶりの対面。

 

巡回展の会場をあとにして、盛岡駅前で大会前の腹拵え。海鮮丼をいただきました。

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海鮮丼(エビが特に美味)

いよいよ、大会の会場入り。

会場のホテルメトロポリタン盛岡本館へ。

ロビーで千葉の今井幸男さんと遭遇。一緒に会場入りしました。

そしたら今度は受付前で、埼玉のいわさきくらげさんとも遭遇。

ここまで来ると知り合いだらけ。すでに楽しいです。

 

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いよいよ始まります

受付で渡された座席表を見て、席に着くと、何と五行歌会の超有名歌人である福岡の紫野恵さんのお隣でびっくり。若干緊張して話しかけたところ、向こうもこちらをご存知でいてくださって、嬉しい限り。これだけで今回参加した甲斐があったというもの。「いつか九州歌会にも来てください」とのお誘いをいただく。真に受けて本当に行っちゃおう。一緒に記念写真も撮っていただきました。ええ、ただのファンです。

大会がスタートし、まずは草壁主宰のご講演。

この講演は、YouTubeで聴くことができますよ。


[第29回]五行歌全国大会inいわて 草壁主宰講演

 

その後は、各テーブルごとに全国大会に提出した歌での小歌会。ここでは3席に滑り込みました。嬉しいコメントもたくさんいただけてほくほく。

 

そして、いよいよ皆さんお待ちかねの全体歌会の得点発表。採点は事前に済ませてあるので、結果が配られるのを待つだけ。上位入賞者は壇上で表彰されるので、ドキドキです。

 

実は私、今回「入賞あるかも?!」と密かに期待しておりました。というのも、全国大会は採点とは別に、自分が気に入った5首に対して、作者にコメントを送れる仕組みがあり、そのラブレターのようなコメント用紙が私の席にわんさか置いてあったのですよ。こりゃあ誰でも勘違いするってもんです。

 

そんなわけで、気が気でない精神状態で結果発表を見ると、確かに高得点はありましたが、表彰の対象である10席までに入ることはできませんでした。ホッとしたような、ガッカリしたような・・・。

 

まあ、冷静に考えれば、私の提出歌は、ちょっと下品な作品だったので、人を選ぶ歌だったのでしょう。上位入賞歌はさすがと思える作品ばかり。野々さんと旅人さんが同点7席でした。おめでとうございます!

 

歌会後は、駅ビルでじゃじゃ麺とソフトクリームを食べて、お土産を買って、新幹線へ。楽しい旅路でした。お目にかかれた皆さま、ご一緒した皆さま、ありがとうございました!

 

来年の全国大会は東京・市ヶ谷であるそうです。また多くの歌人とお目にかかれるといいなあ。

 

(了)

第6回ごいた都道府県支部交流戦神奈川大会を終えて

 どうも、ひげっちです。

 

 昨日(10/19)は、第6回ごいた都道府県支部交流戦神奈川大会でした。総勢124名のごいた愛好家の方々に横浜にお越しいただき、大会・懇親会と楽しい時間を過ごすことができました。

 

 能登ごいた保存会神奈川支部員として、運営のお手伝いをさせていただきましたが、参加者の皆さんが楽しんでくださり、また、「運営お疲れさま」といった労いの言葉をたくさんいただき、今までの準備が無駄にならず、無事に大会を終えられたことにまずはホッとしております。

 

 大会に参加された皆さま、神奈川支部員のみんな、ペアを組んでくれたよち犬さん、本当にありがとうございました!&お疲れ様でした!

 

 ・・・と、一通りのご挨拶を終えたところで、個人的に感じたことを書きます。

 

 まず、今回特に感じたのは「ごいた」と「ごいたをやっている方々」に出会えて本当に幸運だったということ。大げさに言えば、まずごいたのある日本という国に生まれていなければ、ごいたを知らずに一生を過ごす可能性が高かったわけですし、その中でボードゲームという趣味にハマって居なければ、ごいたを知る可能性もグッと下がっていたはずです。さらに言えば、自分の周りにたまたまごいた好きなボードゲーマーが居なければ、今でもごいたをプレイしたことがなかった可能性も大です。この時代のこの国のこの趣味の方々と繋がれて本当に良かったなあ、と思います。

 

 ごいたの魅力は色々ありますが、一番は「人」なんじゃないかと最近思います。ゲーム自体がシンプルであるが故、子供からお年寄りまで遊べるし、駒を通した味方と敵方の思考の読み合いが濃密に楽しめ、プレイ時間も短い故に何度でも遊びたくなる。そして、相手やペアが変われば見える世界はどんどん変わるし、同じ人でもどんどん成長してゆくので、一度として同じゲームは無い。こんなに人と人を密接に繋げてくれるゲームもなかなか無いんじゃないでしょうか。

 

 でも、やりたい人が皆、ごいたをできているわけではないです。ごいたを好きでも色々な事情で深くのめり込むのを断念している人も多いはず。例えば、家庭やパートナーを大事にしていたり、他の趣味との兼ね合いや、経済的事情、あるいは心理的なハードルが高かったりして、大会参加を諦めている人もいるでしょう。自分がごいたを打てているということが本当に多くの幸運と巡り合わせによるものなんだということは、忘れずにいたいです。

 

 最後に、大会を終えて、全国のごいた打ちに一つだけお願いがあります。

 

 また、ごいたしましょう!

 

 

(了)