ひげっちが好むものごと。

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中村佳穂について(再会と再考)

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studio coast名物の看板

 

 

 

はじめに

 12月10日、新木場studio coastにて、中村佳穂さんのライブ「うたのげんざいち2019」に参加してきました。佳穂さんのライブを観るのは2回目。5月の横浜のGREENROOM FESTIVAL以来でした。会場は大入りで客層もさまざま。広い年齢層の支持を集めつつあるのだなあ、と感じました。セットリストは「AINOU」の曲を中心にしながらも、新曲やゲストの石若駿さんとのセッションをちりばめた、意欲的なもの。濃密でスリリングな中村佳穂ワールドを心ゆくまで堪能することができ、5月に感じたのと同じような衝撃を、より洗練された形で感じることができました。

 

圧巻の中村佳穂ワールド

 とにかく、中村佳穂さんは演奏中に、演奏中とは思えないくらい、楽しそうでかつリラックスしているように見えます。自分たちのバンドが生み出している音楽を、自分たち自身が最前列で聴くのを楽しんでいるかのようです。自由で開放的な雰囲気と、次に何が起こるか分からない緊張感が、中村佳穂さんのライブにはあります。佳穂さんは良い意味で、本当に好き放題やっているという感じがして、その姿はまるでつい最近音楽の楽しさに目覚めた子供のようです。そういった姿に、表現者の端くれとして、非常に大きな刺激を受けます。「あんなに自由で奔放な表現が多くの人に受け入れられているのは羨ましい。自分もああなりたい」と、そんな想いを抱かせる方です。

 

表現者のジレンマ

 表現者というものは、自分の「表現したいもの」と、時代や流行が「求めるもの」とを如何にマッチさせるかを常々考えているものです。表現のクオリティがどんなに高くても、時流にそぐわないものであれば、多くの人に受け入れられるのは難しく、その表現に掛けた時間やエネルギーに見合うだけの対価を得ることもできません。ごくたまに表現者の「表現したいもの」がそのまま、時代が「求めるもの」に一致し、絶大な支持を得ることもあるでしょう。しかし、そんな人はごく少数派です。なので、表現者たちの中には時代と懇ろになるために、自らの「表現したいもの」を時代や流行にマッチするように修正・微調整する人もいます。いわば、時代の顔色を伺い、媚びを売る行為です。もちろん、求めてくれる人がいなければ、表現行為じたいがたたの独りよがりになってしまいますから、そういった行為を決して否定しているわけではななく、むしろ、売れるための健全な行為であるとさえ思います。

 

とある懸念

 話がだいぶ逸れましたが、中村佳穂さんからは、この「時代への媚び」をまったくと言っていいほど感じないのです。「私は好き放題やるから、むしろ時代のほうが付いてこい」と言わんばかりの矜持を、佳穂さんからは感じます。もしかしたら、本当に中村佳穂さんの音楽は21世紀の日本には早すぎる音楽なのかもしれません。というのも、今回のライブは確かに素晴らしかったのですが、感動と同時に、客席とステージ上との、ある種の温度差も感じられたからです。ステージ上の中村佳穂さんたちバンドは、本当に開放されてのびのびと演奏していましたが、観客は今までに体験したことのない類いの演奏とステージングであるがために、どうリアクションして良いのか分からず、戸惑いと共に呆然と立ち尽くしているというような方もチラホラ見かけました。演奏者たちが楽しむのはもちろん大切なことだと思いますが、それが行き過ぎると、内輪ウケや楽屋オチのような状態になり、置いてけぼりにされる観客が出てくる恐れがあるのかもしれません。

 

変わるべきなのはどっち?

 かといって、中村佳穂さんに、もっと分かりやすい、大衆にウケるような音楽を作って欲しいという言う気は毛頭無くて、変わるべきなのはむしろ観客であり、受け取るサイドなのだと思います。観客は自分たちに媚びを売ってくる表現に慣れすぎてしまい、主体的にアクションを起こして自分たちから楽しみ方を見つける姿勢が足りないのではないでしょうか。中村佳穂さんは演奏中に「Trust you」とくり返し言っていますが、それに見合うだけの信頼を我々は演奏者たちに向けられているでしょうか。野球に例えるなら、彼女は間違いなく160kmの速球を投げられるピッチャーです。しかし、ゲームが成立するためには、その速球をちゃんと受け止められるキャッチャーが居なくてはなりません。そうでなければ、せっかくの速球もすべて暴投になってしまいます。心を開くべきは、演奏者ではなく、観客側なのかもしれない。そんなことを感じたライブでした。

 

(了)