ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

2020年自分的ベストコンテンツ

どうも、ひげっちです。

 

2020年もあとちょっとなので、

毎年恒例の自分的ベストコンテンツを書き記しておきます。

 

音楽・曲

トーチ/折坂悠太


折坂悠太 - トーチ (Official Music Video) / Yuta Orisaka - Torch

 新型コロナウイルス禍とは切っては切れない一年となった2020年のムードにどんぴしゃだった一曲。この曲はbutajiさんというシンガーソングライターとの共作であり、歌詞は2019年秋の台風19号被害から着想を得て書かれたものであるという。決して落ち込んだ気分を明るく元気づけてくれるような単純な歌ではないが、butajiさん独特の中毒性のあるメロディーラインと、折坂さんの書く温かみのある歌詞が相まって、とにかくこの曲に惚れ込んでしまい、一年を通して何度もリピートして聴いていた。カラオケでもよく歌った。

 

音楽・アルバム

極彩色の祝祭/ROTH BART BARON

極彩色の祝祭

極彩色の祝祭

  • アーティスト:ROTH BART BARON
  • 発売日: 2020/10/28
  • メディア: CD
 

  今年発見したアーティストで一番ハマったROTH BART BARON(ロットバルトバロン)の最新作。バンド名は知っている、くらいのスタンスでいたバンドだが、音楽評論家の柴 那典さんのツイートでこのアルバムのことを知り、聴いてみたのがきっかけでいっぺんに好きになってしまった。

 サブスクのおかげで旧譜もすべて聴くことができたが、2019年発表の前作『けものたちの名前』で、「もしもここを生き残れたら/僕の本当の名前をあげよう」(けもののなまえ)や「さよならまたいつか/会えるその時まで/いくつもドアをあけて/僕らまた出会おう」(春の嵐)といった、すでにコロナ禍を予言しているような歌詞があるのも興味深い。

 コロナ禍のもとで制作された本作は、明確にアフターコロナの時代に聴かれることを意識して作られている。「破壊された日常の向こう側」の道標となるような力強い作品だ。メロディーの美しさも特筆すべきだと思うが、詩歌を嗜んでいる身としては、やはり歌詞が気になった。三船雅也さんの書く歌詞は、何というか、嫉妬と羨望を禁じ得ない。「もし自分がロックバンドを組んでいたら、こういう歌詞を書きたいな」と思わされるような歌詞を実際に書いてらっしゃるからだ。ストレートなメッセージが響く歌もあれば、寓話的で空想を掻き立てる歌もある。そのどちらも、誠に勝手ながら、実に「波長が合う」感じがする。こういうバンドと同じ時代に生きることができて幸せだと思う。

 リリース直後から何度も聴き直しているが、聴く度に新しい発見があり、飽きない。ものすごく細部までこだわって作られているのが伝わってくるし、アルバム全体を通した一つの作品としてのまとまりが良い。アルバムを作るのに必要だったであろう、緻密な計算と、膨大なエネルギーと、表現者としての執念の凄まじさみたいなものも感じられ、軽く畏怖の念を覚えるほどだ。ぜひ未聴の方は体験して欲しい。

 

映画

パラサイト 半地下の家族/ポン・ジュノ監督

www.parasite-mv.jp

 コロナ禍のせいで映画館へ行く回数も減ってしまったので、今年は母数となる映画鑑賞作品の数が少ないが、その中で一本を選ぶとしたら、アカデミー賞作品賞にも輝いた本作だろう。元々、ポン・ジュノ監督は『殺人の追憶』ですごい!と思っていたが、本作はそれの数倍のインパクトがあった。

 現代社会への風刺を盛り込みつつ、先の読めないストーリー展開で、ジェットコースターに乗っているかのような視聴体験ができる。ある意味インド映画的な盛りだくさんな要素もあるが、物語の質感はやはり東アジア特有の湿っぽさがある。視聴者が何かを感じるまで、とにかくやれることを全部やったかのような脚本は、称賛に値すると思う。

 

来年もたくさんの大好きなものと出会えますように!

 

(了)

雑誌『五行歌』2020年3月号 お気に入り五行歌

どうも、ひげっちです。

 

すっかりどころじゃなく、前回のお気に入り更新から4ヶ月も間が空いてしまいました。忙しかったり、精神状態が不安定だったりで、なかなか本誌と向き合う時間が取れなかったです。

 

3月号のお気に入り五行歌を紹介させていただきます。

 

 
捌いた
男を
器に並べて
骨抜き加減をみる
小骨さえも許さない女
 
かおる
10p.
 どこまでも格好良い。ご自身の「男を料理する腕前」に自信が無いと、なかなかこうは書けない。気っぷの良さそうな捌きっぷりをぜひ一度拝見させていただきたいものだ。自分が捌かれてしまう怖れがあるのはちょっと怖いが、どうせ骨抜きにされるなら作者のような女性に…と思わされてしまう力のあるお歌だと思う。感服。
 
 
外国なら
土足で家に上がるけど
日本でされたら
脅威に思えませんか
ハラスメントって そんな感じっす
 
稲田準子
30p.
 被害者側と加害者側で、文化や常識が異なるが故のすれ違い。どちらにも悪気がなくても、悲劇が起こりうる。ハラスメントの特徴を上手く言い当てていると思う。イメージしやすい具体例を挙げて喩えているところが良い。自分の考え方を絶対と思わないこと、異なる文化や常識について想像力を働かせること、が大切なのだと思う。
 
 
正直者が
天国へ
行けるなら
そこには犯罪者が
一杯いるだろう
 
庄田雄二
36p.
 皮肉の効いたお歌。自分の欲求や願望に正直な者が必ずしも善人とは限らない、ということだろう。欲求や願望を叶えることは、時として誰かを傷付けたり、法を犯したりすることもある。結局、「自分に正直なことが大切」とか言いつつ、人間が社会的な動物である以上、近江商人の経営理念ではないが、「自分よし」「相手よし」「世間よし」の「三方よし」に則って、自分の欲求や願望を、なるべく人を傷付けない、世間的にも見栄えがするものに調整する必要がある。人間とはつくづくメンドクサイ生き物だなあ、と感じる。
 
 
明日から何か
変わるわけでもなく
閉店まで
パチンコを打つ
 
よしだ野々
39p.
 男の無頼な感覚を上手く表現されていて、惹かれた。家で待つ人も無く、もしかしたら身近に新年の挨拶をする相手もいないのかもしれない。新年の訪れを素直に喜べない切なさとともに、どこか清々しさも感じさせるのがいい。
 
 
ビニール袋2つ
年賀状10枚
人、ひとりの命など
こんな物か
病院から帰って来た父
 
大森晶子
57p.
 遺品を通じて、人が亡くなるという現象を上手く表現されている。描写が具体的なところが読み手に「死」のあっけなさや喪失感をリアリティを持って伝えていると思う。遺品に年賀状があるというのものまた味わい深い。病室に居ながらでも、ご親戚やご友人との繋がりを大切にしていた方なのかと想像する。
 
 
脱ぎ散らかした
靴を揃える
誰かの手で
今日も
生かされている
 
金沢詩乃
88p.
 とても好きなお歌。大雑把な自分の生き方を、丁寧に整えてくれる人。そうした誰かの存在はとても大切だと思う。靴を脱ぎ散らかしたのが、自分のことを言われたようで、大いに刺さった。自分で自分の靴を揃えられる人間になりたいが、それでも誰かを頼らずには生きていけない人間なんだろうな、と最近は思う。
 
 
子が親を
選べるならば
どれほどの人が
親になれる
だろうか
 
島田正美
89p.
 これはもう、ひとつの真実を言い当ててしまっている。名歌だと思う。里親になるには審査が大変だという話を聞いたことがあるが、子にとって完璧な親などというものは、そもそもが幻想だと思った方がいい。もちろん、逆も又真なりで、親にとって完璧な子というものも存在しない。別々の人間である以上、親も子もお互いにとって不完全なのだ。しかし、親というのは子に対して大きな影響力を持つので、両者の関係は決して対等ではない。子を持たない筆者ではあるが、親であるという責任は重いものだろう。読んでいて身の引き締まるお歌だった。
 
 
生きるために
ICU
行くのだ
たとえ生還の保証が
無いとしても
 
ICU・・・集中治療室
 
植松美穂
116p.
 特集『病に克つ』より。白血病を患った作者の闘病の様子が生々しく描かれた特集であった。中でも胸を打たれたのがこの一首。病に打ち克とうと必死に自らを鼓舞する想いが伝わってくる。無為に毎日を過ごしていると忘れがちであるが、生きていること自体が幸運な奇跡のようなもの。そのことを忘れずにいたい。
 
 
これからは
楽しいことを
するのではない
することを
楽しむのだ
 
鮫島龍三郎
129p.
 この作者もかつて大病を患われた。この達観したような境地のお歌は闘病経験を経てのものか。人にはそれぞれ楽しいこととそうではないことがあると思うが、行為そのものを楽しむ境地になれたのなら、物の見方が変わってくるに違いない。煩悩と怠惰にまみれた筆者にはまだその境地に達することができないが、惹かれるお歌だった。
 
 
ソファに凭たれ
韓ドラ観終えて
旅立っていった叔母
美意識の塊りの様な
人でした
 
棚橋八重子
137p.
 人の最期を自分で選べるとしたら、かなり理想に近い最期だったと言えるのではないか。穏やかな環境で、大好きな韓国ドラマを観終えて旅立たれた叔母。姪である作者から見て、故人は美意識の高い人だったという。もしかしたら、そんな叔母との思い出は優しく温かいものばかりではなかったのかもしれないが、故人に対する尊敬心が伝わる良歌だと思う。
 
 
私の話はいいの
と笑顔で話を譲る
私は
あなたのはなしが
聴きたいです
 
中山まさこ
194p.
 自分のことを後回しにして、笑顔で話の聞き役に回ろうとする、慎み深い「あなた」の人柄が感じられる。作者は、そんな「あなた」の話を聴きたがっている。本当は「あなた」にも他人に聴いてもらいたい話があることを、作者は勘付いているのではないか。きっと作者も大変な時を「あなた」に話を聴いてもらって乗り切った経験があるのかもしれない。お二人の素敵な関係性が伝わってくる。
 
 
できるものなら代わってやりたい
などと
出来ないことを
前提に
言う
 
眞 デレラ
206p.
 一行目のような台詞を筆者も言ったことがある気がして、ドキッとした。苦難の最中などにある人に対して向けた台詞であろうが、そこには後半三行のようなズルさが隠れている。言うなれば、安全圏から投げかけるだけの、みせかけの同情だ。それは同情する側が痛みを伴う自己犠牲ではなく、自分の罪悪感を減らすための自己満足の精神に他ならない。良い戒めをいただいたお歌。
 
 
俺を
馬鹿にした人が
家に来て感謝とか言う
ああ弱ってきた
徴だ
 
中野忠彦
241p.
 自分のことを馬鹿にした人が、態度を軟化させて感謝を述べている。その状態を受けての四、五行目が秀逸。そのことを喜ぶのではなく、その人が「弱ってきた徴だ」と受け取っている。弱ってきた原因が老いなのか病いなのかは明らかにされていないが、とにかくその人が自分に感謝を述べていることを、生物として弱ってきたからこその現象と捉えていることがシビアで良いと思った。それは、その人のこれまでの行いを作者が許していないことの証左かもしれないし、もしかしたら、作者自身にもその人と同じような、自分が弱ったが故に人に優しくしてしまうような経験があったのかもしれない。味わい深いお歌。
 
 
従順さではない
素直さが
大切なんだよ
自分の思いに
素直であること
 
今井幸男
242p.
 額に入れて飾っておきたいレベルで大好きなお歌である。従順さと素直さをはき違えている人は、きっと多いに違いない。それは子どもだけでなく、大人にも当てはまると思う。誰かの言うことに何も考えずにそのまま従うことは、従順であり、素直とは違う。それは、「相手の側から見た素直」であるかもしれないが、「自分の側の素直」ではないのだ。それでは、素直さとは一体何だろう?考えるとキリが無いが、強引に定義するなら「自分の思いを周囲との折り合いがつく範囲で主張できること」といった感じだろうか。「周囲との~」の部分が抜け落ちると、「我が儘」になってしまう。何事も鵜呑みにするのではなく、それをきちんと自分の思いと照らし合わせる癖を付けたい。
 
 
銀河系の大きさ
ミジンコの大きさ
脾臓の大きさ
いまのところぼくは
かなり小さい
 
山川 進
242p.
 「銀河系」「ミジンコ」「脾臓」という、大きさもジャンルもバラバラなもののチョイスがまず良い。それらが羅列された後のまとめ方も好み。四行目、「いまのところ」という表現が特に好きだ。矮小な自分を認めつつも可能性はまだ残されているという、押し付けがましくない希望を感じるところが良い。
 
 
デニムを
少しだけ
落としてはく
君の
若すぎない若さ
 
井村江里
281p.
 作者の「君」に対する温かみと冷ややかさが良い具合に混ざり合ったまなざしを感じるお歌。五行目の「若すぎない若さ」が実に巧み。目に余るほどの若作りではないものの、ひとこと物申したくなる(こうして歌にされている)程度には気にしている作者の視点が良い。言うなれば、生暖かく「君」を見守っているような、絶妙なバランス感覚が感じられるお歌だと思う。
 
 
(了)

【告知】全国文書大会についておしゃべりしよう!「第30回五行歌全国文書大会についてZoomで語り合う会」を開催します【参加者募集!】

 どうも、ひげっちです。

 

 12月5日(土)に「第30回五行歌全国文書大会についてZoomで語り合う会」を開催します!!

 

 第30回五行歌全国文書大会に参加された皆さま、そろそろお手元に「大会誌」が届いたころかと思います。

 

 参加者全員分のお歌と作者コメントが掲載されているのはもちろん、草壁先生の秀作コメントや各参加者の個人賞一覧なども収録されており、読みどころ満載の内容となっております。

 

 この大会誌を読んで感じたことや好きだったお歌について語り合える場が欲しいと思ったので、Zoomを用いてオンラインでやってみようという試みです。

 

 なお、五行歌の会事務局と直接は関係のない、非公式な会であることを
ご承知おきください。

 

 あまり肩肘張らず、楽しくおしゃべりできる会にしたいと思っています。
どうぞ気楽にご参加頂ければ幸いです。

 

  • 参加要件
  1. 第30回五行歌文書大会に参加された方、もしくは大会誌をお持ちの方。
  2. 開催時間にビデオ会議ソフト・Zoom(ズーム)をインストールしたPC・タブレットスマホ等を利用できる環境にある方。
    ※Zoomについて
    https://zoom.us/jp-jp/meetings.html
    ※Zoomは参加者の皆さんに自分の顔が見えるビデオ通話と、音声のみの通話が選べます。どちらを選ぶかは任意とします。
    ※参加者の皆さんへは当日10分前くらいにミーティングに接続するためのリンクを、TwitterのDMかメールにてお送りさせていただきます。

  • 開催要項
    日時:2020年12月5日(土)21時〜23時(予定)
    準備:開催時間になりましたら、Zoomに接続してお待ちください。アルコールを摂取したい方はご自由に。
    参加費:無料
    定員:10名(先着)
    申込み方法:Twitterアカウント(@hidgepaso)もしくはhidgepaso0713@gmail.com まで、参加希望の旨と、
    ①Zoomの表示名(ふりがな)
    を記載してご連絡ください。

    定員が埋まった場合募集を締め切りますが、先着10名以内であれば、当日1時間前くらいまで申し込みを受け付けます。

以上、よろしくお願いいたします!

雑誌『五行歌』2020年2月号 お気に入り五行歌

 どうも、ひげっちです。

 

 すっかり間が空いてしまいました。時間はあったはずなんですが、オンラインでごいたしたり、アニメ見たり、だらだらYouTube見たりするのに忙しく、ついつい本誌の読みを後回しにしてしまいました。

 

 2月号のお気に入り五行歌を紹介いたします。

 

 

こころ
と呟くと
心のこえに
耳は
傾く

 

水源 純
9p.

 「Hey, Siri」や「OK, Google」といった音声で起動するスマートスピーカーを連想した。作者は「こころ」と呟くことにより、自分の心のこえに耳を傾けることができるのだという。これは一種のおまじないのようなものだろうか。本当にこんな能力があるのなら、とても便利だと思う。判断に迷ったとき、悩んでいるときに、もう1人の自分の声を聴くことができる。そうした声を必要とする場面は案外たくさんあるのではないか。そんなことを感じさせてくれたお歌だった。

 

 

暮れの
大掃除のように
十二月に
俺を捨てる

 

よしだ野々
10p.

 恋人との別離はただでさえ辛いものだが、よりによって十二月というのはクリスマスや年末など「誰かと集まって楽しく過ごす」予定が多い時期なだけに、余計に辛い。「大掃除のように」という比喩がまた効果的だ。捨てられた男の悲哀がよく伝わるが、どこか転んでもただで起きないような、力強さ・たくましさのようなものも感じられ、そこがすごく好みだった。

 

 

孤独の表面が
曇ってきたので
夜更け
静かな色の布で
磨いています

 

南野薔子
13p.

 これは傑作だと思う。使われている言葉がどれも的確で効果的。作者にとっての「孤独」は、「透き通っているもの」であり、同時に「大事なもの」であるのだろう。自分の孤独としっかり向き合い、またそれを慈しんでいる人にしか、こういう歌は書けないのではないか。「静かな色の布」という表現がものすごく好き。

 

 

なんか
いいなあー
君がそこにいるだけで
なんか
いい

 

野村久子
50p.

 言われてみたい台詞である。美辞麗句を並べ立てた褒め言葉より、「なんかいい」という言葉が何より嬉しい場合もある。しかも何かをしたり、言ったりといった「行動」を褒めているのではなく、「そこにいるだけ」という「存在」そのものの肯定である。ある意味、究極の褒め言葉ではないだろうか。もちろん言ってくれた方との関係性にもよるだろうけど。

 

自分が
気持ちいいときは
たいてい
失敗している
と思っていい

 

神島宏子
80p.

 わかる、わかる、と大げさに頷いてしまう。自分が気持ちよく喋ったりしているときは、相手は意外と飽き飽きしてそれを聞いていたりして、基本的に出し手と受け手の「気持ちよさ」が合致することはあまりないと思っている。自分が「たまに」楽しいのは健康的だが、自分ばっかりが楽しいのはどこかバランスを欠いていると思った方が良い。大事な戒めを教えてくれるお歌だ。

 

 

横たわる
小さくなった
躰の脇で
ウタをメモする
ショーマストゴーオン

 

西條詩珠
113p.

 特集「おっちゃん」より。亡くなられた泊舟さんのことを詠ったお歌であろう。なきがらの横で、五行歌づくりをしているという、何とも生々しい迫力のあるお歌。「ショーマストゴーオン」という言い回しが好きだ。何が何でも、どんなことでも、歌を書き続けてやろうという、作者の執念のような気魄が伝わる。

 

 

芯からわたしに
足りぬものは
金でしか
買えない
自由なのだ

 

金沢詩乃
211p.

 金でしか買えない自由とは何だろう、と考えさせられた。自由とは束縛されていない状態のことであろうから、金のために束縛されているとすれば、一番に思いつくのは労働だろうか。作者は仕事に忙殺されており、自分のために使う時間が足りないのだと推察した。「金でも買えない自由」であれば、少々陳腐であるが、「金でしか買えない自由」というのが新鮮。不思議な説得力がある。

 

 

えらい
えらい
仕事をする
姿を見ると
みんなえらい

 

中野忠彦
222p.

 ほんとうにそう思います。働くのは大変。みんなお疲れ様です、という気分になる。作者はもしかしたら、もう仕事をリタイアされているのかもしれないと思ったりもしたが、仕事をしている方への敬意を忘れない姿勢に好感を持った。みんな色々なものと折り合いを付けて、働いている。この歌のような気持ちを忘れずにいたい。

 

 

支えた夫が転(こ)くれば
私も転くる
手を引き上げれど
共に又転くる
かじかむ夜ふけ

 

矢野キヨ子
250p.

 ご夫婦の姿を想像して温かい気持ちになった。歩くときも転ぶときも一蓮托生。綺麗事だけではないお二人の絆を感じた。ハートウォーミングなお歌のようにも読めるが、五行目の「かじかむ夜ふけ」から、どこか心許なさや不安感も想起させる。味わい深いお歌だと思う。

 

 

しょうがの漬物が
美味であった
茶にあうだろうと
思う私
十七才

 

長谷紗弥香
259p.

 若い作者と、しょうがの漬物との取り合わせが面白い。渋好みの自分を自分で面白がっているかのようで、そこが逆に若さを引き立てていて、読後感がさわやかだ。「美味であった」という言い方や「お茶」ではなく「茶」と言うところも仰々しさが感じられてよい。

 

 

昔読んだ本に
意味不明の
アンダーライン
当時の自分が
理解できない

 

としお
261p.

 あるある!と共感してしまった。受験勉強で読んだ本など、今見ると全然重要じゃない箇所に蛍光ペンでマークしてあったりする。たいていそういう本は当時の自分にはちょっと難しめな本であったりして、カタチだけでも理解した気になりたかったのか、一生懸命さが空回りしていたのか、どことなく微笑ましい気分にさせてくれるお歌だった。

 

 

お笑い番組
くだらないね」
と言いながら
二人で笑ってしまう
たいせつな時間

 

黒乃響子
308p.

 なぜ「くだらない」と批判を受けつつも、お笑い番組がこの世からなくならないのか、その理由がわかるようなお歌。ドキュメンタリーやニュース番組ではなし得ない、「たいせつな時間」をつくる力がお笑い番組には確かにあるのだと思う。良いお笑い番組を見ると、ふっと肩の力が抜けて、悩んでいることが馬鹿馬鹿しくなるような、前向きな気持ちになれる。それは現実から目を逸らす、気休めやガス抜きのようなものかもしれないが、心を整えるという点においては、他の難しい番組よりも、お笑い番組の方が原始的で強い力を持っているように思う。歌の中の「二人」というのがどのような関係かはわからないが、たいせつな人との時間のお供には、テレビからネットへと媒体は変わるのかもしれないが、お笑い的な要素のある番組があり続けるのではないか。

 

 


(了)

 

雑誌『五行歌』2020年1月号 お気に入り五行歌

 どうも、ひげっちです。

 

 仕事をお休みしているので、本誌の読み進めが快調です。前回に引き続き、雑誌『五行歌』2020年1月号のお気に入り作品をご紹介します。

 

 

遠慮
ではなかった
足りなかったのは
本気と
勇気
 
宮川 蓮
41p.
 何かを悔いているお歌だと感じた。昔のことを思い出して「もっとこうすればよかった」「ああすべきだった」というような後悔を抱いてしまうことはよくある。日本では遠慮深いことが美徳であると思われやすい傾向にあり、その後悔の原因が自身の遠慮深い性格だったと考えれば、「でも自分はこういう性格だから・・・」と、ある程度自分を納得させられるものだったかもしれない。しかし、作者はそれで終わらず、自分に足りなかったものを歌にして真っ向から言い当ててみせる。ここに潔さと清々しさを感じる。自分に足りなかったものを自覚した作者は、今後は自分が「これ」と思ったものには、勇気を持って本気で飛び込んでゆくに違いない。
 
 
 
五才の孫娘が
スティックと足で操る
電子ドラムセット
夢馳せて
 
43p.
 ロック幼女の歌である。しかもドラマーというのはレアで良い。電子ドラムとは言え、足も使っているというので、バスドラもちゃんと叩いているのだろう。大変将来有望で素晴らしいと思う。四行目で彼女がなぜロックに目覚めたのかが種明かしされる。彼女は生まれる前から、母親のお腹の中で「ラルク・アン・シエル」というバンドの曲を聴いていたということなのだろう。ラルク・アン・シエル(通称:ラルク)は、いわゆるヴィジュアル系バンドとして一世を風靡し、今なお高い人気を誇る超有名バンドである。筆者も、思春期のころによく聴いていた大好きなバンドだ。小さなドラマーがいつか夢を叶え、大きく羽ばたくことを祈りたい。
 
 
 
数本の
深い傷を
懐に
薄っぺらく
生きる
 
岩瀬ちーこ
51p.
 四行目の「薄っぺらく」が効いていると思う。謙遜を込めての表現であろうが、ご自分の生き方を決してひけらかさない姿勢に好感を抱いた。それでも、作者の抱える傷は「深い」のだ。もしかしたら、まだ癒えきっていない、塞がりきっていないのかもしれない。しかも、傷は一つではなく複数である。このお歌を歌えるようになるまでに必要だった時間と作者がなさってきたであろう苦労に思いを馳せた。全体を通して簡潔な言葉で短くまとめられているが、読んだ人に確かな余韻を残すお歌。
 
 
 
猫が温めた
椅子に
信長の気分で
座る
ようやった
 
中山まさこ
96p.
 ほっこりさせていただいたお歌。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が冬に信長の草履を懐に入れて温めたというエピソードにちなみ、猫に自分の椅子を温めさせているという。五行目の「ようやった」が完全に信長目線になっていて可笑しい。猫もきっと「御意にございます」と忠誠を誓ってくれるのではないだろうか。
 
 
 
遠からずきみは死ぬだろう
遠からずぼくも死ぬだろう
その後も 雲は流れ
木々は揺れ
草は戦(そよ)ぐだろう
 
村田新平
119p.
 特集「老いたふたり」より。奥様とご自分について詠われた秀歌が並ぶ特集であったが、この作品が最も心に響いた。「死」を遠くない未来として受容している姿勢にまず尊敬の念を抱く。年齢的になかなかこの域に達することはできないが、「メメント・モリ(死を忘るなかれ)」という昔からの格言もあるように、本当は人間はいつでも「死」を身近に感じているべきなのだと思う。ご自分達が亡くなられた後の自然の営みに想いを馳せる三~五行目も、とても美しい情景がイメージとして浮かび、惹かれた。
 
 
 
物語りは佳境か
ラッシュにも
異世界の笑み
赤皮のブックカバーの
女(ひと)よ
 
159p.
 電車かバスの中で、本を読んでいる女性のことをいきいきと詠っている。三行目「異世界の笑み」が良い。彼女はラッシュをものともせず、物語の世界に入り込み、笑みさえ浮かべているというのだ。見る人が見れば、ちょっと不気味とさえ思うかもしれないが、作者はどちらかと言えば好意的な目線で彼女のことを見ているように感じられた。というのも、ここ数年で電車やバスの車内では、大半がスマホを見る人ばかりになり、本を読む人が珍しくなりつつあるからだ。今時珍しく車内で物語の世界に没頭する人、という視点が成立するからこそ、このお歌の魅力が引き立つように感じた。
 
 
 
きっと
闇と
戦い始めた
坊やの
輝き
 
菅原弘助
191p.
 「坊や」の年齢がいくつくらいなのか、「闇」が具体的に何なのか、は読み手には分からないが、とても惹かれたお歌。読み手各々が、自分にとっての「坊や」や「闇」を思い浮かべられるのも、このお歌の魅力の一つではないかと感じた。「坊や」の行く末にはきっと一筋縄では行かない何かがあり、本人もそれに気付き始めた年齢なのだろう。どうか「闇」に負けず、いや、正確には「闇」に負けてしまうことがあってもいいから、どうかしぶとく生き延びて、できる限り健やかに成長して欲しい。
 
 
 
お菓子の空き箱を
立体の
アートに変える
若き作家の
指先には赤い胼胝(たこ)
 
福田雅子
194p.
 お菓子の空き箱を利用して人形や建物などを造るアートは、話題になったのでご存知の方も多いだろう。元のパッケージを活かしたそれらのアートは、見た目のインパクトもあり、SNS等で人気を博している。とても現代的な題材であるが、作者はそれらを造る作家の指先に胼胝があることを見逃さない。どちらかと言えば、お菓子の空き箱アートは、昔からある絵画や彫刻などの芸術に比べて、SNS映えや話題づくりを狙ったお遊び的なもの、と捉えられてしまう面もあるだろう。しかし作者の視点は、そこにものを造るということの大変さ、努力の積み重ねがあることを気付かせてくれる。作者独自の視点が光るお歌。
 
 
 
風邪をひくと
お隣から上の階から
毎日お惣菜が届く
高層団地の
長屋暮らし
 
秋川果南
202p.
 この令和の時代にもこういった「困ったときはお互いさま」の、ご近所づきあいが残っていることに安堵感を覚える。しかもそれは、昔ながらの下町の長屋ではなく、高層団地での出来事というギャップがまた素敵だ。これは間違いなく作者の人間性の為せる業だろう。日頃から、ご近所と良好な関係を築いているからこそ、病気の時にこうして親身になってくれる方がいるのだ。ご近所づきあいも、気の合う人だけではないであろうし、何かと煩わしい面もあるだろう。それでも、こういう良い面を感じられるお歌を目にすると、人付き合いもまだまだ捨てたもんじゃないな、と思うことができる。素晴らしいご近所関係だと思う。
 
 
 
言うだけで
何もしないのね
言ってしまって
自分の言葉に
自分が傷ついている
 
岡本育子
276p.
 つい本音をこぼし、それが相手を傷付けたことに気付き、自分を責めていらっしゃるお歌だと感じた。こういう後悔は筆者にも身に覚えがある。筆者も思ったことをつい考え無しに口走ってしまうことが多く、後からそれを悔いて悶々とすることがある。昔、大好きな友達に言われて良く覚えているのが「言葉は受け取った人のもの」という言葉だ。自身では自分に誠実であろうとしているつもりでも、それが結果的に相手を傷付けてしまうとしたら、相手から見た自分は「誠実な人」ではなく「失礼な人」である。もちろん、相手のためを思って自分を偽ることが大事というのではなく、自分の気持ちを伝えるなら、それを受け取った相手側の視点を持つことが大事なのだと思う。四、五行目の相手を傷付けた故に自分を責める作者の優しさは胸が詰まるものがある。自分を大切にすることと、話し相手を大切にすることは、深い意味で同義なのではないか。そんなことを考えさせられたお歌。
 
 
 
「できない」
とふつうに言え
なんとか、やったあとも
「できなかった」
と普通に言え
 
山川 進
284p.
 手に余る仕事を任されそうな時の対処法を説いてくれているお歌だろうか。簡単に「できます」「やります」と言うべきではないということだと感じた。要は、「自分を実力以上に高く見積もるな」ということではないだろうか。「ちょっとキツいな」という仕事でも、やっているうちに周りの人の助けもあって、意外と何とかできてしまい、それが自信になり、また次にちょっとキツめの仕事にトライする・・・、というのが、私の仕事に対するイメージだが、このお歌は、そうした仕事のやり方はいつか自分の首を絞めるよ、と諭しているかのよう。仕事で「できない」と、しかも「普通に」言うのは簡単なことではないが、仕事をするときに、頭の片隅に置いておきたくなるお歌だ。
 
 
 
(了)

雑誌『五行歌』2019年12月号 お気に入り五行歌

 どうも、ひげっちです。
 
 あまりブログでは弱音を吐きたくないのですが(Twitterではしょっちゅう吐いてる)、ここのところ、ひげっちはあまりメンタルの調子が良くありません。とは言うものの、深刻に心配していただくほどのものではなく、ご飯もバクバク食べてますし、夜もぐっすり寝てます。ただ、仕事はしばらくお休みすることになったので、日中はもっぱら読書と散歩と書きものをしています。ある意味、一足早い余生みたいな、夢のような日々を過しております。これに慣れてしまうことが一番怖いので、早く元気になって社会復帰したいです。
 
 雑誌『五行歌』2019年12月号のお気に入り作品を紹介させていただきます。
 
 
 
トライが決まる
日本勝利
明日から変われる と
たくさんの人が
そう思った
 
玉虫
11p.
 
 記憶にも新しい、昨年日本で開催されたラグビーワールドカップのことを詠んだお歌だろう。様々な人種的背景を持つ選手たちが「ワンチーム」として闘う姿に熱狂した方も多かったと思われる。日本代表の勝利に感銘を受け、明日から自分も変われる、変わるんだと決意した方も多数いたのかもしれない。と、それだけでも充分に良い歌なのだが、おそらくこのお歌は単純な「日本万歳」のお歌ではないように感じる。ポイントは四、五行目のどこか冷めている、他人事のような視点。まるでこの後に「が、しかし・・・」という六行目が続きそうな余韻さえ残す。一時期のお祭り騒ぎでは、日本の抱える閉塞感は振り払えないという諦観が含まれているように感じ、そこがとてもこのお歌を魅力的にしていると思った。
 
 
 
来世は
だんご虫に
なって
じっと
していたい
 
河田日出子
69p.
 
 こういう気持ちになるときは往々にしてある。まず、シンプルにとても共感した。「来世に生まれ変わるなら何が良いか?」というアンケートがあったとして、疲れているときは、なるべく何も考えなくて済みそうな生き物を選択したくなる。海洋生物ならクラゲ、節足動物ならだんご虫、植物ならタンポポの綿毛なんかが上位に入ってくる。やや脱線したので話を戻すと、作者にとって今世は「じっとしていなかった」ものであり、それによって心身ともに疲れてしまい、思わず書いてしまったお歌のように感じられた。一時的な気分の落ち込みであればよいが、作者ほどの方の来世が一介の節足動物というのでは、いささか魂の無駄遣いであるような気もする。私もすぐネガティブになるのは他人のことを言えないので、「来世も人間に生まれたい」と胸を張って言えるような生き方をしていきたい。まあ、そもそも輪廻転生が本人の願望を聞き入れてもらえるシステムである保証はないのだけれど。
 
 
 
殺意
殺人
二つの間に
物を置け
いいものをおけ
 
山川 進
82p.
 
 当たり前のことながら、殺意を抱いた人が皆、殺人を実行するわけではない。なので、殺意と殺人の間には、近いようで大きな隔たりがある、と思いたい。このお歌ではその二つの間に「いいものをおけ」と詠われている。果たして「いいもの」とは何か。例えば自分が衝動的に殺意を抱いてしまったときに、それを思いとどまらせるものが「いいもの」の正体となるだろうか。それは、シンプルに「人を殺してはいけない」という倫理観かもしれないし、「殺人者」としてのレッテルが貼られる恐怖かもしれないし、家族や友人に迷惑をかける不安かもしれないし、それやこれやを総合的に判断して「殺人を犯すと面倒くさいことになりそうだ」という合理的な判断かもしれない。これらのものを強引にまとめるなら、「人間らしさ」だろうか。倫理観も合理的な判断も、不安も恐怖も、人間ならではのものだ。「殺意と殺人の間にいいものをおけ」とは、つまりは「殺意を抱いてしまったときには自分が人間であることを思い出して」という、作者の呼びかけなのかもしれない。
 
 
 
森離れ荒野に
一本だけ
立つ樹よ
君だけが陽を
全身に浴びている
 
としお
97p.

 

 群れを離れ、孤立・孤独を受け入れる生き方を礼賛するかのようなお歌。しかし、全身に浴びるのは陽の光だけではない。一本だけで立つということは豪雨も嵐も雷もすべて単独で受け止めなくてはならない。森には森ならではのメリットもあるだろう。しかし、それを覚悟した上で、孤立・孤独を受け入れるということは、やはり気高く美しいことだと感じる。個人的には、一本一本の樹がそれぞれ尊重され、充分な陽を浴びることができる上に、豪雨や嵐などのいざという時には手を差し伸べ合える、今の流行りの言葉で言うなら、樹木たちそれぞれがソーシャルディスタンスを守った森になれば良いのにと思う。
 
 
 
歌詠みの
歌知らず
己の未熟を知らずして
成長は
ない
 
ひさし
101p.

 

 耳に痛いお歌だが、とても大切なことを詠われている。歌のことをよく知らない人からすると、素晴らしい歌を書いているひとは、さぞかしたくさん素晴らしい歌を読んで勉強されていると思うかもしれないが、中に飛び込んでみると、これは「人それぞれ」というのが実感だ。たくさんの歌を読むこと(=インプット)が好きな方もいれば、たくさんの歌を書くこと(=アウトプット)が好きな方もいる。どちらも得意という方ももちろんたくさんいらっしゃるが、どちらかに偏っている方もある程度いらっしゃるという印象だ。かくいう私も古典などは、てんで勉強しておらず、常々自分の浅学ぶりを思い知ることが多い。伸びしろだけはあると信じて、少しずつ勉強してゆきたい。
 
 
 
怒れ
君は 君自身として
認められるべきだった
役割ではなく
 
宇佐美友見
138p.

 

 「スイミー」は国語の教科書に載っていたお話として、多くの方に親しまれている作品ではないだろうか。端的に説明すると、他の魚と容姿が違うことがコンプレックスだった主人公のスイミーがとある出来事をきっかけにそのコンプレックスを強みに変えて活躍し、それをきっかけに他の魚たちにも受け入れられるようになるという話だ。筆者も子供の頃読んで、「いい話だな」と感動した覚えがある。自分が抱えている劣等感も状況や視点を変えれば強みになるのかもしれない、というメッセージに希望を感じたのだと思う。しかし、このお歌はスイミーがその容姿で差別されていたこと自体に憤りを感じている。これが斬新な視点でハッとさせられた。確かにスイミーの容姿は生まれつきのもので、自身には何の落ち度もないものだ。それが原因で周囲から差別されているのであるから、人間社会に置き換えてみたら、それらが決して許されないものであることが良く分かる。名作を「いい話だったね」で終わらせるのではなく、現代的な視点で疑問を呈してみせるこの感性に惹かれた。
 
 
 
(夢)(うん)(嘘)
(かもしれない)(あ)
(気球)(だね)(遠く)
(誰も)(きっと)(憧れ)
(観覧車)(いつか)
 
南野薔子
170p.
 
 五行歌史上に残る意欲作のひとつではないだろうか。括弧書きにされた言葉は台詞の掛け合いのように感じられる。登場人物は2人のようにも、多くの人が居て代わりばんこに言葉を発しているようにも思える。歌の構造を整理するために、このお歌が登場人物2人(A,B)による台詞の掛け合いであり、交互に言葉を発していると仮定して、台本のような形式に書き直してみる。
 
A「夢」
B「うん」
A「嘘」
B「かもしれない」
A「あ」
B「気球」
A「だね」
B「遠く」
A「誰も」
B「きっと」
A「憧れ」
B「観覧車」
A「いつか」

 

 一応、会話のやりとりとして成立しているような印象。全体的に儚げなイメージがあるが、まず、のっけからAの「夢」という問い掛けに対して、Bが「うん」と肯定し、さらにAは「嘘」と言うと、Bは「かもしれない」と応える。これで、この歌全体が、夢か現かわからない世界での出来事ということがわかる。次に、二人は遠くを飛んでいる気球に気が付く。ここで気になるのがAの「誰も」という台詞。これは気球が無人の気球で誰も乗っていないものだという指摘だろうか。気象観測や天体観測の分野では無人気球がよく使われているらしく、Aはそうした気球に詳しかったのかもしれない。Bも「きっと」とそれに同調し、Aは次に「憧れ」と話す。これは気球そのものに憧れを抱いているとも、無人気球が関係する「空」や「天体」への憧れとも解釈できる。Bはそれに対して「観覧車」と話す。これは、おそらく気球の他に観覧車も見えているというよりは、Aの発した「憧れ」という言葉からの連想だと考えた方が自然なように思う。最後にAは「いつか」と話す。Bと一緒に観覧車に乗りに行きたいという気持ちの表れであろうが、ここに少し違和感がある。通常、遊園地等の観覧車の乗りに行くことはそこまで実現の難しいことではないが、なぜかこのお歌の「いつか」はあまり実現可能性が高くなさそうに感じるのである。そもそも「今度」ではなく、「いつか」なので、AとBには何らかの制約があって、すぐには遊園地等に行けない理由があるのだろう。例えば、どちらかが病院に長期入院しており、治療が終わって退院するまでは観覧車に乗れない、などと考えるとしっくりくる気がする。評と言うより、考察になってしまったが、それだけ魅力的なお歌になっているのは間違いない。いつか作者ご本人にこのお歌について聞いてみたい。
 
 
 
柱を巣食う
害虫
から
益虫への
キャリアアップ講座
 
山崎 光
177p.

 

 社会に出るための勉強をしている現在のご自分を、ユニークな視点で捉えたお歌であると読ませていただいた。親の脛(大黒柱?)を齧るのが害虫であるという表現は理解できるが、転身を遂げても「益虫」であり、人格は与えられていない点がシニカルというか、謙虚さを感じた。しかもその転身のための方法は「キャリアアップ講座」である。虫からずいぶんと飛距離のある言葉を選んだな、と感心させられた。しかも、この言葉のどことなく胡散臭さが感じられる点が実に効いている。作者自身もこの「キャリアアップ講座」が本当に役に立つのか、半信半疑なのではないかと感じられた。
 
 
 
人の死は
ほんのしばらく
いのちの
はかなさを
諭す
 
リプル
210-211p.

 

 二行目、「ほんのしばらく」がまさしくその通り、と膝を打った。人の死は「自分の人生もいつか終わる」ということを最も端的に実感する出来事だ。このお歌の通り、訃報に触れたり、葬儀に参列したりすると、故人を偲ぶ気持ちと共に、自分の人生を今一度見直そうという気持ちになることも多い。だが、そういう気持ちが本当に自分の生き方に大きな影響を与えるかというと、ほとんどの場合そうはならない。ほんのひとときの命の儚さに感傷的な気持ちになるものの、気が付くといつもの日常の忙しなさに追い立てられ、また元の鈍感で無神経な生き方に戻ってしまう。このお歌の良いところは、そうした人間の特性を責めたり、ダメ出ししたりするのではなく、「そういうものだよ」といった感じでどこか受容しているように感じられる点だと思う。読んでいて優しい口調で諭されているような気分になった。
 
 
 
ランチセットの
コーヒーに
小さいお菓子が
付いていると
午後はとても幸せ
 
茶わん
232p.

 

 とりとめのないことを、とても素直に歌っていて、それがとても素晴らしい。ささいで、かけがえのない日常を上手に切り取られていると思う。ランチセットは、お店にもよるだろうが、それだけですでにお得感があるメニューであることが多い。メインの料理の他に、サラダやスープ、ドリンクが付いたりする。そのドリンクのコーヒーにさらに、おそらくはメニューには載っていない、小さいお菓子が付くというのだから、これはもう期待以上の嬉しさというもの。お菓子はそんなに大層なものでなくていいのだ。小さいクッキーとか、チョコとか、安売りの袋菓子を小分けにしたものとかでまったく問題ない。とにかく、コーヒーにアテがあるということで、嬉しい気分になれる。幸せの持続期間が「午後」というのも絶妙でリアリティがある。
 
 
 
心の渇きが
止みません
それを埋める
術さえ
思いつきません
 
大橋克明
273p.

 

 ご自分の心の裡をストレートに詠われていてとても惹かれた。心の渇きが止まないことを自覚しつつ、それを埋める方法も思いつかない、というとてもシビアな状況を詠われている。こういう歌に対して、ありきたりの励ましなどは書きたくない。筆者の立場から、もっともらしいことをあれこれ書いたとしても、あまり意味は無いように感じる。心の渇きは作者自身のものであり、本当の意味で状況を打開できるのは作者だけだからだ。突破口があるとすれば、心の渇きととことん向き合って、作歌の糧とすることだろうか。ネガティブな気持ちは、創作にとっては良い原動力であり、ハッピーな気持ちより何倍も燃焼効率の良いガソリンだ。作者の今後の作品を楽しみに待ちたい。
 
 
 
九十二歳の母は
会うたびに
綺麗になっていく
生まれ変わる
準備をしている
 
藤田典子
276p.

 

 なんという素敵な歌だろうか。このお母様に是非一度お目にかかりたくなってしまう。四、五行目がまた素晴らしい。92歳という年齢ながらおそらくご健康に過されているお母様がいて、そのお母様が日ごと綺麗になられているように感じられ、また、そのことをこんな風に表現できるという、素晴らしさの惑星直列のような、奇跡みたいなお歌ではないだろうか。間違いなく名作。読んでいて目が覚める思いだった。
 
 
 
中島みゆきを熱唱する
浪人生
励ますつもりが
負けじと唄う
ばあちゃんのすがた
 
神島宏子
286p.

 

 これはなんと言っても「中島みゆき」が効いている。これが「松任谷由実」や「竹内まりや」では成立しない。いや、成立はするかもしれないが、このお歌の持つ迫力は出ないだろう。中島みゆきの歌の持つ、不器用に生きる人へのあたたかい眼差しは、浪人生にはさぞ沁みるに違いない。筆者も彼女の歌のファンである。負けじと唄ってしまうばあちゃんの姿にも大いに共感した。言葉での励ましより、カラオケでの熱唱で心が通じ合える瞬間もある。浪人生とばあちゃんのお二人の関係性に拍手を送りたい。
 
 
 
(了)
 

歌詞をどう解釈するか?(5)

 では、このシリーズの最後にちょっと変化球な楽曲を。

 

 難解で深読みを誘う詞世界に定評のあるキリンジの5thアルバム『For Beautiful Human Life』に収録されている『奴のシャツ』を取り上げたい。

 

キリンジ『奴のシャツ』歌詞

 

 一読しただけでは、「何のこっちゃ」だろう。何についての歌なのか、何が言いたい歌なのか、よくわからない人が多いのではないかと思われる。

 

 まず、何といっても登場人物が多すぎる。親戚がいっぱい出てきて誰が誰やら状態だ。頭の整理も兼ねて、楽曲の主人公について、歌詞から読み取れるのは、

 

・一人称が「俺」であることから、おそらく男性である
・平日からプラプラしており、「遺産があればしばらくしのげる」とあることから、「俺」はおそらく定職についていない
・「継母」とあることから、現在の母親は実の母ではないことがわかる
・「親父の通夜」とあることから、父親が亡くなった(と言うより、この楽曲の時系列の中で亡くなっている)ことがわかる
・「親父」は、「しばらくしのげる」程度の遺産を残してくれている
・「叔父」から見た「俺」は、「深刻さが足りない」ように感じられる

 

 という複雑な状況におかれた「俺」であるが、いったい彼の抱えている問題とは何か?

 

 上記の状況から、父親の死に直面したというのに、「定職についていない」「深刻さが足りない」(ように見える)ということは充分、「設定」たりうるだろうが、いささか表面的で、問題はもっと深層にあるような気がしてならない。

 

 ここでは3度のサビで繰り返される以下のフレーズにこそ、真の問題が隠されていると考えたい。

 

「ボタンを掛け違えたまま大人になるのは嫌ね。」

(中略)

「ボタンを掛け違えたまま年をとるのは恥ずべきことだ。」

(中略)

「ボタンを掛け違えたまま年をとるのは切ない。」

 

 1番は姪の視点、2番は叔父の視点、3番は「グラスの底に沈む顔と目が合えば」とあることから、おそらく「もう一人の自分自身」の視点ではないかと想像できる。

 

 つまり、この楽曲における「設定」とは、


 「俺」は「ボタンを掛け違えたまま年を取って」おり、それが良くないことだとと周りの人に思われている(あるいは自分でもそう思っている)ことである。


 ここで、もう一度「俺」の境遇を思い返して欲しい。

 

 「俺」の父親はそこそこの遺産を残していることから、ある程度、名を成した人物だと想像できる。

 

 父親は「俺」の実の母親とは別れ、(死別か離別かは明言されていない)継母と再婚している。ある程度地位のある人物にありがちなことで、成功を収めてから、若い女性と再婚したとは考えられないだろうか。


 いずれにせよ、そういった結婚は「俺」の望むところではなかっただろう。

 

 また、父親の死因であるが、おそらくは病死であると考える。「今夜 あつらえた黒のスーツを下ろす」とあることから、礼服を(おそらくオーダーメイドで)新調する猶予があったことがわかる。突然死ではなく、「父親の死」を受け入れる期間があったからこそ、「そっか、じゃあ礼服を作ろう」と、「俺」は思ったのだろう。

 

 「俺だけのシャツの着こなし」とある通り、この礼服を「俺」は「親父の通夜」で、独自の(おそらくは場違いな)着こなし方で着ているようだ。そこを叔父に見咎められ「深刻さが足りない」と説教をされているのだ。無理もない。叔父からしたら定職についていない甥が、彼の父親の通夜にチャラチャラした格好で現れたわけで、説教の一つもしたくなるというものだ。(「俺」はひょっとしたら、この通夜の喪主かもしれないのである)

 

 名を成した人物の息子というのはとかく周囲に期待される。「俺」も決してその例外ではなかっただろう。厳しく育てられたか、甘やかして育てられたかは分からないが、「俺」が定職についていないであろうことから、その子育ては「父親」の望んだ通りにはいかなかったであろうと想像できる。(我が子の無職を願う親はあまりいないだろう)

 

 いかん、ちょっと妄想が暴走してしまった。

 

 つまり、何が言いたかったかというと、この楽曲の「設定」をもっと分かりやすく言い換えるなら、下記のようになるのではないだろうか。


 「俺」は、周囲の人が望むような大人になれなかったと周囲の人から思われており、自分でもそう感じている。


 この問題に対する「解決」は、上記で抜粋した「ボタンを掛け違えたまま~」の後ろの部分を見ればよいと思う。

 

ああ、聞いた風なことを言う娘だね

(中略)

親父の通夜でからまれる

(中略)

ああ、知ったふうな事を言うね

 


 1番、3番を見る限り、「俺」は「ボタンを掛け違えたまま~ 」のくだりの助言(皮肉?)を真に受けていないように感じる。3番でその助言を言ったのは自分自身であるにもかかわらず、だ。

 2番だけ、少し違うが、「からまれる」という表現からすると、叔父の助言が骨身に染みているとは言い難いだろう。通夜でおそらく酒も入っていることだろうから、「面倒くさいオッサンにからまられたな」くらいにしか感じていないのではないだろうか。

 

 つまり、「俺」は周囲の人たちが期待するような大人になっておらず、そのことを折りにつれ周囲の人たち(自分自身も含めて)から指摘されているのにもかかわらず、そのことに「聞く耳を持たない」のである。

 

 3番のサビの前半部分に、重要な部分がある。

 

俺だけのシャツの着こなし 姿見の前を逃げ出し

 

 「俺だけシャツの着こなし」とは、前述の叔父に怒られたチャラ男ファッションのことであろうが、本当にそれだけの意味だろうか?今一度確認したいのは、この楽曲のタイトルが「奴のシャツ」だということである。つまり、この曲において、「俺」の「シャツ」は重要キーワードであるのだ。

 

 「シャツの着こなし」とは何の比喩であろうか?

 

 この場合のシャツは礼服・スーツであることにも注目したい。礼服はハレの日に着るもので、スーツは男性であれば仕事で毎日着るものだ。少し強引に解釈するなら、「シャツ」は「社会性」の象徴である、と言えるかもしれない。


 「社会性の着こなし」というのであれば、それは「(社会における)生き方」と言い換えることもできるだろう。

 

 次に、「姿見の前を逃げ出し」とあるが、これはもっとわかりやすい。

 「姿見」とは「鏡」であり、「自分を客観的に見るための道具」である。「鏡の前を逃げ出し」ているのだから、「俺」は「自分を客観的に見ることを放棄」しているのである。

 

 こうなれば、すでに自分自身からの助言にも耳を貸さないことは前述した通りである以上、「俺」を戒めるものは何もない、ということになる。

 

 つまり、この楽曲の「解決」とは、


 「俺」は、周囲の人たちからの助言・皮肉に対して、聞く耳を持たず、自分を客観的に見ることを放棄し、自分だけの生き方を貫いている。


 あらためて、「設定」と「解決」をまとめると、この楽曲の物語は以下のように整理できる。


 周囲の人が望むような大人になれなかった「俺」が、自分を客観的に見ることを放棄し、自己肯定に至るまでの物語


 過去に取り上げた3つの楽曲は、どれも前向きな余韻を残す楽曲だったと思うが、この楽曲は果たしてハッピーエンドなのだろうか?

 

 それは、聴く人の判断に任せられている、としか言いようがない。遺産を食いつぶして、破滅しか見えないバッドエンドと言う人もいれば、「俺」を苦しめてきた様々なしがらみから自由になり、自分だけの生き方を見つけた人への応援歌(今で言うなら「アナ雪」的な)と言う人もいるかもしれない。

 

 他にも、「俺」は「継母の従兄弟」に何故会いに行ったのか?とか、「俺」っていったい何歳くらいなんだ?とか、いくらでも妄想を働かせて語ることはできるのだが、本筋から離れてしまうので、ここでは割愛する。

 

 作詞・作曲の堀込(兄)さんがこの楽曲で伝えたかったのは、メッセージではなく物語だろう。わずか300字足らずの歌詞で、これだけ妄想をかきたてる作詞家の腕前には脱帽というしかない。

 

 さて、この歌詞解釈シリーズはいったんここで終わりです。また書きたくなったら書くかもしれません。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

※この記事は2016年1月7日にmixiの日記として公開したものに加筆・修正を加えたものです。

 

 

(了)