ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

第6回ごいた都道府県支部交流戦神奈川大会を終えて

 どうも、ひげっちです。

 

 昨日(10/19)は、第6回ごいた都道府県支部交流戦神奈川大会でした。総勢124名のごいた愛好家の方々に横浜にお越しいただき、大会・懇親会と楽しい時間を過ごすことができました。

 

 能登ごいた保存会神奈川支部員として、運営のお手伝いをさせていただきましたが、参加者の皆さんが楽しんでくださり、また、「運営お疲れさま」といった労いの言葉をたくさんいただき、今までの準備が無駄にならず、無事に大会を終えられたことにまずはホッとしております。

 

 大会に参加された皆さま、神奈川支部員のみんな、ペアを組んでくれたよち犬さん、本当にありがとうございました!&お疲れ様でした!

 

 ・・・と、一通りのご挨拶を終えたところで、個人的に感じたことを書きます。

 

 まず、今回特に感じたのは「ごいた」と「ごいたをやっている方々」に出会えて本当に幸運だったということ。大げさに言えば、まずごいたのある日本という国に生まれていなければ、ごいたを知らずに一生を過ごす可能性が高かったわけですし、その中でボードゲームという趣味にハマって居なければ、ごいたを知る可能性もグッと下がっていたはずです。さらに言えば、自分の周りにたまたまごいた好きなボードゲーマーが居なければ、今でもごいたをプレイしたことがなかった可能性も大です。この時代のこの国のこの趣味の方々と繋がれて本当に良かったなあ、と思います。

 

 ごいたの魅力は色々ありますが、一番は「人」なんじゃないかと最近思います。ゲーム自体がシンプルであるが故、子供からお年寄りまで遊べるし、駒を通した味方と敵方の思考の読み合いが濃密に楽しめ、プレイ時間も短い故に何度でも遊びたくなる。そして、相手やペアが変われば見える世界はどんどん変わるし、同じ人でもどんどん成長してゆくので、一度として同じゲームは無い。こんなに人と人を密接に繋げてくれるゲームもなかなか無いんじゃないでしょうか。

 

 でも、やりたい人が皆、ごいたをできているわけではないです。ごいたを好きでも色々な事情で深くのめり込むのを断念している人も多いはず。例えば、家庭やパートナーを大事にしていたり、他の趣味との兼ね合いや、経済的事情、あるいは心理的なハードルが高かったりして、大会参加を諦めている人もいるでしょう。自分がごいたを打てているということが本当に多くの幸運と巡り合わせによるものなんだということは、忘れずにいたいです。

 

 最後に、大会を終えて、全国のごいた打ちに一つだけお願いがあります。

 

 また、ごいたしましょう!

 

 

(了)

雑誌『五行歌』2019年6月号 お気に入り五行歌

どうも、ひげっちです。

このブログをご覧の皆さま、台風19号の被害は大丈夫でしたでしょうか?

幸い、ひげっちの住む地域には大きな被害はありませんでしたが、

五行歌仲間の中には、甚大な被害を受けられた方々もおられることと思います。

お見舞いを申し上げるとともに、一日も早い復旧を祈っております。

 

さて、すっかり更新が遅くなりましたが、

2019年6月号のお気に入り五行歌を紹介させていただきます。

今月はいつも以上に自分に「刺さる」お歌が多かった印象です。

 

結局
己と向き合うのが
一番飽きない
道楽である
極めて死のう

金沢詩乃
p.20

 

 表現の根源をズバリと言い当ててくれる、気持ちの良いお歌。己と向き合い、出てきたモノを表現するというのは、突き詰めれば「道楽」であるという認識が素晴らしい。決して「生業」や「仕事」ではないのだ。何より自分が楽しむためにやっているのだと思うだけで、読んでいるこちらの気持ちも軽くなるような、力のあるお歌だ。「死のう」と言い放って終わるお歌なのに、ちっとも暗い印象は受けないところもいい。

 

どうやら私は
馬鹿ではないらしい
と思う程の
どうやら私は
馬鹿ではあるらしい

漂 彦龍
p.21

 

 ややこしくて可笑しいお歌。きっと作者の心には、自己否定と自己肯定の薄い膜がミルフィーユみたいに交互に積み重ねられているに違いない。自分を「馬鹿じゃない」と思えるほど脳天気ではいられないが、心の底から「自分は馬鹿だ」と割り切れるほどプライドは低くない。不器用さ、生きづらさ、といった言葉が思い浮かぶ。しかし、作者はそんな自分自身を卑下することもなく、過信することもなく、ありのままの逡巡自体を表現として昇華してみせる。力みの無い凄味を感じるお歌。

 

はしっこで
文句を言ってる
気楽さよ
いつまでも私
弱者でいたい

王生令子
p.83

 

 自分の狡さを指摘されたようでドキッとしたお歌。誰しもが思い当たる節のある指摘ではないだろうか。例えば、政治家や上司について文句を言うとき、文句を言えるのは責任が無い者の特権であるとも言える。自分が何か決断をして、物事を決めていかねばならない立場にあれば、誰からも文句を言われないようにするのは不可能であろう。狡さを認識したうえでなお、「弱者でいたい」と詠っているところが心憎い。

 

現実は
逃げられない
から
もう一つの世界で
遊ぶ

鮫島龍三郎
101p.

 

 特集「病院日記」より。作者を存じ上げている身としては、ショッキングなお歌の数々であったが、特集の最後を締めるこのお歌に特に惹かれた。逃れようもない大変な現実からの逃避としての「もう一つの世界」。五行歌のような表現活動もその一つであろう。詠い込まれている想いは、決して軽いものではないはずだが、何かを達観したような軽やかな筆致が素晴らしい。

 

涸れながら
まだ
なまぐさい
月を
抱く

小沢 史
134-135p.

 

 幻想的で官能的。独特の文体とリズム感をお持ちの方だとお見受けした。3~5行目の表現が好きだ。「月」が何の比喩なのかによって、解釈がだいぶ変わってくるお歌だと思うが、自分は何となく「月」は「小さな子供」や「みどりご」の比喩のような印象を受けた。水分が多く透明感のある肌をした幼子を「月」と表現したのではないか。全然違っていたらすみません。

 

40億年後も
逢えたら良いね
憶えていてね
よろしく
あいらぶゆう

 

牛乳瓶の底に残った
わずかばかりの
魂の破片
「死んではいないよ」
僕を見上げた

都築直美
143p.
319p.

 

 自分の血肉を削り出しているかのような迫力と、どこか愛嬌のある、人を食ったような発想の面白さとが同居する、作者のお歌のファンである。1首目、最後の1行がよい。英語でもカタカナでもなく、ひらがな表記なのが絶妙。2首目、瓶の底に残る牛乳と、自分の魂に宿る生命力のようなものがリンクする。どちらもスケールが大きく力強いお歌だ。

 

「群れる」意識
よりも
「群れない」不安
に依って
我々は動かされている

甲斐原 梢
174p.

 

 鋭い批評眼が光るお歌。集団意識のようなものを上手く捉えている。「集団に属したい」という積極的な意識より、「どこにも属していない」という不安の方が、多く場合、強烈だ。筆者も2年ほど前は無職でいた時期があったが、その時には確かにどこにも属していない心許なさを感じていたように思う。人間は社会的な動物であり、孤独・孤立は即、「死」に繋がる。そのため、根源的にそれらに恐怖を感じるようにインプットされているのだろう。

 

うまくいかない時に
感謝するのは難しい
人を
恨まないようにすることで
精一杯

樹実
176p.

 

 これは本当にその通りだと思う。よく「どんなときでも感謝を忘れずに」などと、言う人がいるが、自分の心に余裕がないときに、他人に感謝をするのは並大抵のことではない。筆者などは、「うまくいかないのは誰かのせい、うまくいったときは自分のおかげ」をモットーに生きているが、作者はうまくいかないときでも、人に感謝しようという姿勢は持っており、それがすでに凄いと思う。さらに、感謝しようとしてもうまくできない自分の正直な気持ちを吐露しており、その衒いの無さも素晴らしい。読めば読むほど好きになるお歌だ。

 

ことだまを
ゆすってみる
もよら もよら
その よいんのなかに
たたずむ

柳瀬丈子
176p.

 

 頭で理解するのではなく、心で感じるタイプのお歌だと思う。3行目、「もよら もよら」が何とも心地よい。5行全てがひらがな表記なのも相まって、お歌全体からリラックスを促すアルファ波が出ているかのよう。4、5行目がまさしくこのお歌の読後感を表していて、読み手は心地よい余韻をじっくりと味わうことができると思う。

 

いぢわるが
過ぎた日
つり銭は
募金箱に
投入する

芳川未朋
203p.

 

 「いじわる」でなく、「いぢわる」なのが何とも可愛らしく、小憎たらしい。「いぢわる」はきっと、陰湿な嫌がらせのようなものではなく、愛情の裏返しのような微笑ましいものなのではないだろうか。自分でそれがちょっと行き過ぎだったなと自覚のあるような時に、埋め合わせのように小さな善事を行うところが、ますます可愛らしい。

 

失望をしても
しずかに別の道へ
方向転換するだけ
度を過ぎた期待は
していない

今井幸男
275p.

 

 人間関係における気の持ちようとして、大いに共感する。他人への過度な期待は、たとえそれが恋人や肉親であっても、あまり良い結果を生まないように思う。相手への期待が大きければ大きいほど、それが裏切られたときに相手を責めてしまいがちだが、本当は誰も自分の期待に応えるためだけに生きているわけではない。作者はそのことを充分に解っているのだろう。

 

もっと人を信じろよ
もっと人を疑えよ
もっと考えろよ
もっとなにも考えないでいろよ
どっちなんだよ はっきりしろよ

伊藤雷静
290p.

 

 「中学生の五行歌」より。作者にはもはや、○○中学校○年というような肩書きは必要ないだろう。すでに立派なうたびとだと思う。正直に告白すれば、4月号に載っていたお歌を読んだ時から作者のファンである。何を信じ、何を疑い、何を考えればいいのかわからない、焦燥感のような感情が上手く表現されている。一度作者と話がしてみたい。

 

ひくことも
こもることも
いつでもできる
しかしぼくは
できることはしないのだ

山川 進
319p.

 

 人生においては、時には痛みや辛いことから逃げることも必要な時がある。おそらく作者もそれを承知の上で「ぼくは/できることはしないのだ」と詠う。この勇気に溢れた宣言に痺れる。私も色々なことから逃げて、逃げまくって、引きこもっていた時期が長かった。それらが全て無駄な時間だったとは思いたくないが「逃げ」は癖になり、また、逃げ続けていると、居場所はどんどん狭くなる。ならば、逃げるのは最後の手段に取っておき、できないこと、やったことのないことにどんどんチャレンジしていくことが、自分の人生を豊かにしてくれるだろう。勇気づけられたお歌。感服するしかない。

 

(了)

雑誌『五行歌』2019年5月号 お気に入り五行歌

どうも、ひげっちです。

今週に入り、季節の変わり目で体調を崩してしまいました。

ずっと部屋で引き籠もっていたので、

雑誌の読み進めが捗ったのが、不幸中の幸いです。

というわけで、雑誌『五行歌』2019年5月号のお気に入り作品をご紹介します。

ご一読いただければ幸いです。

 

 

違和感に蓋をして
口角あげて
背中で中指たててる
そんな自分に
ゾクゾクするわ

 

自分で自分を
騙している
自覚はちゃんとあるから
大丈夫
まだ冷静だ

稲本 英
22p.
228-229p.

 

 どちらも「自分で自分を騙している」ことについて詠っているお歌だと思う。面白いのは、どちらも「自分を騙している自分」を「さらに客観視している自分」の目線で詠われていること。前者はそんな自分に恍惚としており、後者は少し正気を失いかけている様子が見て取れる。作者に自分を騙すことを強いている存在が何なのかまでは読み取れなかったが、独特の魅力を放つお歌達だ。

 

ほんとうに
よいことばは
たぶん
どこぞでだれぞが
すでにつことる

 高原郁子(こうげんかぐわし)
38p.

 

 確かにその通りだと思う。誰かの人生の糧になるような「本物の良い言葉」はもうすでに誰かが紡ぎ、残していることだろう。でも個人的には「誰かにとって必要となる言葉」というのは時代とともに変化していくものだと思う。だから、我々は、自分自身を含む、今を生きる人達に向けて、必死に言葉を紡ぐのだろう。結論ではなく前提として、大切なことを教えてくれたお歌。方言での表記も効いている。

 

暗黒の
未来に
なっちまったな
だが
それでいい

堀川士朗
127p.

 

 どこかデカダンスを匂わせる、破滅的で毒のある作者の書く五行歌が大好きであったが、作者は今号限りで五行歌の会を退会されてしまった。わりと筆者と年齢も近く、共鳴する部分も多かっただけに、ショックが大きかった。ほんの一瞬ではあるが、私も会を退会することを真剣に考えたほどだ。今後は表現するジャンルは変わってしまうが、これからもお互いに刺激を与え合えるような存在でいたいと願う。暗黒の未来で祝杯をあげたい。

 

虐待 ネグレクト
私にだって
その芽は
潜んでいると思った
子育て時代

村松清美
164p.

 

 児童虐待のニュースが流れるたび、多くの人は加害者の残虐非道さを責め立て、「信じられない」「理解できない」と自分とは関係ない問題として捉えてしまいがちだと思う。しかし、このお歌は自分にも加害者になる可能性があったことに正直に言及し、虐待・ネグレクトといった問題を、特別な事情を抱えた人だけの問題ではなく、自分自身に引き寄せて捉えているところに、勇気と潔さを感じた。

 

信じよう
お互いに
失ったものを
与えられた
仲なのだ

しん
175p.

 

 「お互いに失ったものを与えられた仲」というのは色々な解釈ができそうだ。作者とその相手はわかりやすい関係性ではなく、色々あった仲なのだろう。それを具体的に説明することなく、簡潔な言葉で表現することで、読み手に想像の余地を残しているところに惹かれた。能動的な「信じよう」という一行で始まるところもいい。

 

悩む相手に
自分の古傷を
特効薬のごとく
語っている
ん、卑しいぞ

吉川敬子
189p.

 

 これは私もよくやってしまいがちなことなので、大いに共感した。悩みは人それぞれのはずなのに、かつて悩んだ経験がある人は、自分自身の経験談が、今悩んでいる人へのヒントになるはずだ、と信じて疑わないところがある。これは、私も善意のつもりで知らず知らずのうちにやってしまうことがあるが、悩んでいる当人からしてみれば、自分の悩みを相談したはずが、いつの間にか相手の体験談にすり替わっているのだから、「きちんと自分の話を聴いてくれていない」と感じる可能性もあるだろう。作者の仰る通り、こうした行為は卑しいのかもしれない。今後は気を付けようと思った。

 

毎年の
梅の香を
くぐり抜け
父の匂いの消えた
家に入る

三隅美奈子
222p.

 

 年月の巡りと、かつてそこに居た人の追憶とを「香り」と「匂い」とを用いて、非常に巧みに描かれている。まるで、良質の短編映画を観た後のような余韻が残る。お父上との別離からはある程度の年月が経ったことが伺え、感傷的でありながら、それでも季節がまた春に向かってゆくことの前向きさも感じられる。この塩梅がたまらない。

 

四百人の聴衆より
たった一人の暗闇へ
語りかける方が合っています
音訳再開
頑張れ自分

板東和代
233p.

 

 「たった一人の暗闇に語りかける」という表現に惹かれた。音訳については知識が無かったので、ネット検索で少し調べて知ったのだが、目の不自由な方達向けに、活字の本などを読み上げて録音図書などにまとめる作業のことのようだ。「暗闇」とは文字通り目が不自由なことも指しているのだろうし、心の暗闇のことも指しているのであろう。こうした取り組みはもっと広がって欲しいと思うし、私も作者を陰ながら応援したくなった。

 

ついに来たか
老々看護の
二人三脚
助け合い行くぞよ
ゴールまで

堀内 力
272p.

 

 社会問題ともなっている老々介護のことをあくまで、前向きに描いている点に惹かれた。「二人三脚」や「行くぞよ」という表現もいい。介護のゴールとは、すなわち人生の終わりに他ならないが、こういった達観した明るくて前向きな高齢の方の死生観に触れるにつけ、自分もこういう歳の取り方をしたいなあと思わされる。

 

貴方のせいだと花が言う
お前が悪いと風が言う
散らせる風も散りゆく花も
御互い引かれ合い縺れ合いながら
罪を背負ってこの世に生きる

辻 あい子
273p.

 

 「花」が女性、「風」が男性の象徴であろうか。ちょっと演歌調な世界観にも思えて、不思議な読後感を覚えた。「花が散る」とは破局の暗示のことか。それでも、花も風も、引かれ合い、縺れ合いながら、「罪を背負ってこの世に生きる」という。一筋縄ではいかない、オトナの男女観という感じがする。今までの五行歌の世界ではあまり類を見ない感性をお持ちの方だとお見受けした。今後も注目してゆきたい。

 

いつも
新しいいのち
今日は
あなたに
会った

草壁焔太
274p.

 

 何を言っても蛇足になってしまいそうな、流石と言うほかないお歌。そうなのだ。いのちは生きている限り、いつも今日が一番新しい。そのことを感じさせてくれるような「あなた」という存在が居て、その方に「会った」ということ。当たり前のようでいて、奇蹟のような巡り合わせ。ちいさな幸せを噛みしめて生きる様子が伝わってきて、あたたかい気持ちになる。

 

彼の身体は
礼拝堂であった。
深奥な喉から
高い鼻の塔を抜け
呼吸は歌になった。

マイコフ
276p.

 

 作者については詳しく存じ上げないが、ちょっと日本人離れした感性の持ち主だと感じる。英詩の日本語訳を読んでいるような感覚にも陥る。句読点の使い方も効いている。構成も言葉選びも巧みで、荘厳なイメージを読む者に抱かせる。最後の「呼吸は歌になった。」という締め方も好み。

 

グリムスパンキー
「大人になったら」
久々に感じた
この衝撃
まさに私の青春

加藤温子
324p.

 

 まさか雑誌『五行歌』でGLIM SPANKYの名前を見る日が来るとは!GLIM SPANKYとは、筆者もファンである二人組のロックユニットであるが、その中でも「大人になったら」という曲を選ぶあたりが、実にわかってらっしゃる、という感じ。筆者はもっとポップな「リアル鬼ごっこ」という曲が一番好きなのだが、「大人になったら」はスローテンポで過ぎ去りし青春を歌っている名曲だ。好きなアーティストのことをストレートに詠っているところがよく、アーティストを知っていると余計に共感できて二度美味しい。書いてくれてありがとうございます、と言いたくなるお歌。

 

※参考 GLIM SPANKY - 「大人になったら」


GLIM SPANKY - 「大人になったら」

 


(了)

雑誌『五行歌』2019年4月号 お気に入り五行歌

 ひげっちです。久しぶりの更新になりますが、雑誌『五行歌』2019年4月号のお気に入り作品をお届けします。おそらく過去最多、全19首になってしまいました。4月号は本当に名作揃いでした。分量は多いですが、ご覧いただけたら幸いです。

 

 

霞を食べる
仙人を
見習え
刹那を食らう
凡人たち
 
山崎 光
15p.
 
 「凡人たち」に当てはまる心当たりがあり過ぎる身としては、ドキッとさせられたわけだが、この歌の凄いところは、こういったお説教めいたことを詠っているにも関わらず、読み手にまったく言っていいほど、不快な気持ちを抱かせない点。むしろ読んでいて、ある種の清々しささえ感じさせるから不思議だ。実はこういった「偉そうな歌・上から目線の歌」というのは難しい。一歩間違えると、お説教臭さが鼻につく歌になってしまいがちだからだ。これはあくまで想像だが、この歌は今を生きる人々への警鐘であると同時に、作者自身の自戒の念も込められているのではないか。作者の歌を作る際の「姿勢の良さ」が感じられるから、伝えたい想いがすっと読み手に届く。これは間違いなく才能のなせる業だ。
 
 
 
八方塞がりの
壁が崩れたのは
最後は死ねばいいんだ
と 立ち上がった

 

酒井映子
20p.
 
 どこにも出口が見当たらないような状況の中で、苦悶の末、生への執着さえも手放したことで、状況を打破したという経験が力強い筆致で描かれている。人間、気持ちが弱気になり、保身や体裁を気にしていると堂々巡りに陥りがちだが、文字通り「死んだ気」になって物事に当たれば、望み通りとはいかないまでも、道が開けることが多いと思う。筆者にも似たような経験があるので、共感するとともに、勇気を与えてもらえるお歌だ。五行目が一文字だけになっているのも巧みで、どん底から立ち上がったまさにその瞬間にフォーカスが当たるとともに、歌全体がグッと締まる効果を生んでいると思う。
 
 
 
ママとギクシャクし始めた
女児10歳
よしよし
議論が
対等に近づいたってことだ

 

兼子利英子
38p.
 
 作者は女児の祖母だろうか。女児の成長を温かく見守っている視点に惹かれた。10歳ともなれば、そろそろ自我が芽生えてきて、いっちょ前のことを言い始めるころ。思春期の入り口と言ってもいい。色々と難しくなってくる子育ての一場面を上手に捉えていると思う。3行目の「よしよし」が包容力があって素敵。作者のような存在が居ることは、きっとママにとっても、女児にとっても、ありがたいことなのではないだろうか。
 
 
 
たしなみを
忘れない人の
胸の奥には
想うひとが
きっといる

 

吉田節子
149p.
 
 そうなのだ。胸の奥に想うひとがいる人は、めったなことはしない。大切なひとを悲しませたくはないから。大いに共感する一方、「想うひとがいない人」についても想いを馳せた。想像を絶するような恐ろしいことをしてしまう人は、もしかしたら、「誰かがいるべき胸の奥」が空っぽだったのかもしれない。でも、人は一人では産まれてこれないし、一人では成長できない以上、そういった人もまた、誰かの「想いびと」だったのかもしれないと考えると、堪らない気持ちになる。想うことは無力かもしれないし、想い返されることを期待してはいけない。それでも自分自身を保つために、誰かのことを想う。そういう生き方はとても尊いと思う。
 
 
 
植える前に
芽を出す球根
寒さを教えなければ
花は
咲かない

 

かおる
152p.
 
 球根のお歌だが、人間も同じなのかもしれないと感じた。最近自分が感じていたこととリンクしていたので、見逃せないお歌だった。球根にとっての寒さは、人間にとっては挫折や苦労ということになるだろうか。そうしたものを経験し、乗り越えた人間はやはり強い。だからと言って、すすんで挫折や苦労を味わえ、とは言えないが、一生そういったものとは無縁であることが、本当に幸せな人生と言えるのかどうか。色々と考えさせられた。
 
 
 
けっして
本物ではなかったのに
一番本物らしかった
初恋という

 

三隅美奈子
159p.
 
 本物の恋というものがどういうものか、未だに勉強不足でよく分かっていない筆者としては、作者に「本物の恋」について聞いてみたい気持ちになるが、そんなことはさておき、この歌にはある種の真理があるように感じた。初恋には、不器用、一途、ひたむき、といったイメージがある。そして、たいていの場合、成就しないことが多いように思う(※個人の感想です)。筆者は最近誕生日が来て、不惑を迎えたが、正直この歳になっても恋というのは「わけがわからない」ものだ。そのわけのわからないものに、勇気を持って体ごと飛び込んでいく姿勢こそが、初恋を本物らしく感じてしまう原因ではないかと思う。
 
 
 
いつの間にか
世界地図から
消えてしまった
事なかれ主義の

 

鈴木理夫
160p.
 
 今の日本の国としての有り様を痛烈に皮肉っていて、このままでは日本が消滅してしまうよ、と警鐘を鳴らすお歌であろうか。国というのはつまるところ、領土とそこに住む個人の集合から成るものであるから、事なかれ主義の国というのは、事なかれ主義の人々の集合ということになろう。大多数の日本人は揉め事を嫌い、平和を愛する国民性を持っていると信じているが、混迷する世界情勢の中、かつてのように受け身でいるだけでは平和は守れなくなってきていることを肌感覚で感じる。かといって、どう行動するのが良いのか、と問われれば、その答えは簡単ではない。自分の立場を明確にすると、他者との分断を生む。どうかこのお歌の憂いが杞憂に終わり、事なかれ主義の国々が世界中に増えればいいと、平和ボケの筆者は思う。
 
 
 
聴きながら皆
同じ顔 を思い浮かべてる
ハラスメント講習
ご当人を
除いて

 

明槻陽子
162p.
 
 現代的なテーマを痛快に詠まれていて惹かれた。ご当人という言葉のチョイスが絶妙。何処の職場にもお一人くらいは「ご当人」のような方がいらっしゃるであろう。ハラスメント講習を受けているご当人の心持ちやいかに。「自分には関係ない」と聞き流しているのか、多少は思うところがあって反省しているのか、はたまた別の誰かの顔を思い浮かべているのか。ハラスメントとは、大人の世界の「いじめ」であろう。ハラスメント対策においては、多くの場合、加害者に注意を促すという傾向にある。一方、話は少し変わるが、子供の世界のいじめにおいては、未だに「いじめられる側に問題がある」「もっと強くならないといけない」などと、被害者に責任があるかのような物言いがまかり通っているように思う。子供の世界においても、はっきりといじめの加害者に注意を促すようになって欲しい。
 
 
 
幻想を
常食する
種族に
生まれついた
というけだるい呪い

 

南野薔子
178p.
 
 なかなか解釈に迷うお歌だが、筆者なりに感じたことを書かせていただく。「幻想を常食する種族」とは、小説、漫画、映画、詩歌などの創作物を好んで読んだり見たりする人間であるということだろうか。そういったタイプの人間として生まれたことは、「けだるい呪い」であるという。筆者も創作物に触れるのは大好きな人間であるが、そういった人種のことを決して美化していないところが、逆に好感が持てる。全体から感じるどこか耽美的な印象も魅力的だ。
 
 
 
ぼくは
とべない鳥だ
みんなや家族は
とべて
ぼくはとべないみんなはとべて

 

明光小学校三年
北本恵太郎
206p.
 
 自分に自信が持てない男の子のお歌だろうか。読んでいて切なくなった。ありきたりは慰めは言いたくないが、どうか、書くことを続けて欲しい。それが五行歌でなくてもいい。作者の気持ちにみんなが気付けるのも、そこから何かを感じ取れるのも、ほんとうの気持ちを書いたらこそ。ほんとうの気持ちを文字にして書けるというのは、いつか作者の力になるはずだ。
 
 
 
決して
忘れているわけではない
言葉にするのが
困難なだけなのだ
戦争は

 

ともこ
231p.
 
 戦争経験者の方々も高齢になり、だんだんと戦争体験を語れる人は少なくなってきている。幼少のころ、夏に親に連れられて戦争体験の話を聞く会に行った覚えがあるが、退屈だし、怖いし、早く帰ってテレビゲームがしたいと思いながら聞いていた。今にして思えば、大変失礼で勿体ないことをしていた。語り手の方々はそれぞれ辛い思いと向き合って話をしてくれていたのに。辛い体験を言葉にして語れるのは、その体験をある程度自分の中で消化できているからだと思う。戦後74年が経っても、それすらできずに戦争体験を未消化のまま心に抱えている人がたくさんいるということだろう。
 
 
 
おばあさんは
散歩中の
保育園児の群れに
孤独を
そっと置いてきます

 

村岡 遊
259p.
 
 なんとも言えない余韻を残すお歌。歌の主体のおばあさんは、おそらく作者のことだと読ませていただいた。作者は、お散歩中の園児たちと遭遇し、そっと孤独を置いていくという。これは、楽しそうにお散歩している園児たちに、おそらくは孤独を体現しているような作者ご自身の姿から何かを感じ取って欲しいという想いが込められているのではないかと思った。しかし、相手は園児たちであることから、そもそも「孤独」がどんなものであるのか分からない子もいることだろう。ゆえに、この想いはさほど切実ではなく、「君たちにはまだわからないだろうけど、こういう孤独なおばあさんもいるのよ」というような、どこか余裕と温かな眼差しが感じられる。この匙加減がたまらなくいい。
 
 
 
ゴールしたいから
スタートに
就くのではない
スタートしたいから
スタートに就くのだ

 

高原郁子
275p.
 
 何かを始めるとき、最初から具体的な到達点を思い描く人もいるだろうが、それはどちらかと言えば少数派だと思う。例えば、歴史に残るようなスポーツ選手がいたとして、その人も最初にそのスポーツを始めたときは、「このスポーツで世界一になるんだ」という思いより、「そのスポーツが楽しくてしょうがない」という純粋な思いの方が強かったのではないか。端的に言えば、衝動は野心に優る、ということを伝えようとしているお歌だと感じた。最初の一歩を踏み出さなければ、何も始まらない。自分のゴールを設定するのは、スタートを切った後でも構わない。何かを始める前にあれこれ皮算用してしまう筆者に喝を入れてくれるお歌だ。
 
 
 
嫌われる
疎まれる
あぁ歪んでいるから
面白がられる
愛される
 
今井幸男
291p.
 
 真ん中の行の「歪んでいる」ということ軸に、とある人達からは嫌われ、疎まれる一方、また別の人達からは面白がられ、愛されるという二面性が詠われている。同じ歪み、言い換えれば「個性」でも、受け止め方は人それぞれということだろう。これは考えてみれば、当たり前のことで、誰かから好かれている人は、同時に同じくらい別の誰かからは嫌われているのが自然なのだろうと思う。それでも人間は欲張りなので、できることなら多くの人に好かれたいと願うもの。いわゆる八方美人な人は、自分の歪みを上手に隠すとともに、自分を好きでいてくれる人を意識的・無意識的に取捨選択しているのだと思う。きっと作者はそういうことはせず、嫌われることを覚悟で自分の歪みをオープンしつつ、誰とでも分け隔てなく付き合う方なのではないか。この潔さに惹かれる。
 
 
 
しあわせを
何かに
たとえ
人に
嫌われよう

 

いわさきくらげ
311p.
 
 シンプルな言葉しか使われていないが、発想が面白く、解釈も難しいお歌だ。しあわせを何かにたとえる、というのはさほど悪い行為とは思えないが、それをすると人に嫌われる、と詠われている。しかも、それを承知で、自分から能動的に人に嫌われようとしているのが面白い。的外れになることを覚悟で、少し突っ込んだ解釈を試みると、しあわせに関するたとえ話をするというのは、おそらくは自分自身がしあわせな状態な時に行う行為だろう。作者自身のしあわせを何かにたとえて話すというのは、失礼だが少しキザな、分かった風な行為であることだろう。人間は妬みっぽい生き物なので、どちらかと言えば他人の幸せより不幸が好きなもの。ゆえに、自分のしあわせを何かにたとえるというのは、そういった人達を敵に回す行為だという自覚があるのだろう。そして、大事なのはそれを自覚した上で、すすんで自分の幸せを何かに喩えようとしている点。一読した時はつかみどころのないお歌だと感じたが、こうして読み込むと、肚の据わった力強いお歌であることがわかる。
 
 
 
よく考えてみると
僕は嘘ばかり
事実は話せても
本心は話せない
自分にすら話せない

 

川越市立高階中学校二年
伊藤雷静
358p.
 
 3、4行目に惹かれた。客観的な事実は話せても、自分の本心は話せないという。作者のことは存じ上げないが、どちらかというと他者とのコミュニケーションの際に、表面を取り繕ってしまい、体裁の良い言葉ばかりを言ってしまうタイプのお方なのかと想像した。会話していても、自分の本心が置き去りになってしまうので、当然それは楽しくないし、ストレスやフラストレーションが溜まってしまう。そういったことを続けているうちに、自分自身でも自分の本心というものが分からなくなってしまう。何とも苦しく、切ないお歌だ。しかし、こういった方は、裏を返せば、空気が読めて、他人を気遣えるやさしい心を持っているのだと思う。どうか、自分のことを卑下せずに、コミュニケーションの中に自分の「ほんとうの気持ち」を少しずつ出せるようになっていただけたら嬉しい。それと同時に、他の誰かの「ほんとうの気持ち」に敬意を忘れないこと。それさえ出来れば、会話というものは楽しく、ストレスが溜まるどころか、むしろストレス解消になることに気が付くはずだ。
 
 
 
人と出会って
成長した人は
別れても
成長出来るはず
がんばれ!

 

中村幸江
368p.
 
 気持ちいいほどの直球!ズバンと心を撃ち抜かれたので、選ばずにはいられなかった。歌のつながりや体裁を無視して、私情が溢れまくっている5行目が最高。進学や就職などの門出に立っている人に向けたエールだろうか。その人の成長を実感し、また、さらなる成長を期待している温かな視点がいい。作者の相手を想う気持ちが十二分に伝わってくる。こんな風に誰かを思えることは幸せなことに違いなく、また、こんな風なエールを送ってもらえる人というのも、幸せな方だと思う。
 
 
 
ドローン
AI
遺伝子操作
蒼い地球は涙袋
幼い女の子一人救えない

 

天野七緖
372p.
 
 スケールが大きく、かつ詩情に溢れ、考えさせられる。とても完成度の高いお歌だと思う。4行目の表現が好きだ。「幼い女の子」が特定の事件の被害者を想定しているのかどうかは分からないが、テクノロジーが進歩する一方で、そういったものの恩恵をまったく受けることなく、絶望的な状況で追い詰められている、か弱い命も多い。テクノロジーは時に人間の心にも影響を与えるものだと思うが、それは果たして良い影響なのかどうか。効率や通り一遍の善悪にばかり固執して、思考停止し、人間性を失う恐れはないか。願わくば、テクノロジーの進歩が、か弱きものを救い、彼らが生きやすくなるような社会であって欲しい。
 
 
 
失敗した
人生であっても
生きることには
なんの
支障もない

 

会沢光子
384p.
 
 誰だって失敗よりかは成功した人生を歩みたいもの。しかしながら、挫折や躓きと無縁で、何もかもが順風満帆である人生などそうそう送れるものではない。誰だって大小の差はあれど、失敗を経て成長してゆく。そんな人生を真っ向から肯定してくれている点がいい。一度も転んだことがない人より、転んでから起き上がった人の方が強くさえあると個人的には思う。もちろん、まったく転ばないというのも素晴らしい才能であると思うが、転んだことのない人は、転んで苦しんでいる人の気持ちが本質的に理解できないのではないだろうか。他人の苦しみに共感できるというのは、多くの人が考えているより、ずっと大切な資質ではないかと、最近強く思う。
 
 
 
(了)

雑誌『五行歌』2019年3月号 お気に入り五行歌

 こんばんは、ひげっちです。
 
 どんどん投稿頻度が遅くなっていますが、今さらながら雑誌『五行歌』2019年3月号のお気に入り作品を紹介させていただきます。
 
 
 
クジラが
プランクトンを
吸うように
人を馬鹿にして
生きている
 
山崎 光
14p.
 
 一読して、すっかり惚れ込んでしまったお歌。まず、自分自身への平静でシニカルな批評眼が感じられるところがいい。次に、クジラの比喩が実に効果的だ。後半二行は割と過激なことを詠っているのだが、クジラの持つ雄大さやスケールの大きさといったイメージのおかげで、その表現があまり嫌味に感じられないところが巧み。クジラのような存在になら馬鹿にされるのも仕方ないかな、と許容してしまいそうになる。クジラがプランクトンを摂取するときは異物や海水ごといっぺんに呑み込む。作者は人を馬鹿にしていると言いながら、人の良いとこ悪いとこを丸ごと呑み込んで、自らの成長の糧にしてしまうのではないか。
 
 
 
謙虚に生きよう
と 決めたのに
酒を飲めば
いつのまにか
自慢話

 

鮫島龍三郎
20p.
 
 謙虚を心掛けてもなかなか上手くいかない、この人間らしさがいい。自分で自慢話をしているという自覚がある方はそれだけで充分謙虚な部類に入る気もするが、作者はきっと自分自身に厳しいお方なのだろう。酒の席では失敗談の方がウケるし、聞いている人との距離も縮まるとは思うが、私自身は割と自慢話をするのも聞くのも嫌いではない。会う度に毎回同じ自慢話を繰り返されたら、さすがに辟易するだろうが、世の中には色々と凄い人がゴロゴロいるので、「私のここがこんなに凄いんです」という話は、むしろ進んで聞きたい。
 
 
 
今日を 蹴り上げろ
明日を でっち上げろ
生きたけりゃ
常識なんかじゃ
もう 駄目なんだよ

 

 都築直美
46p.
 
 自分自身に喝を入れているような、力強いお歌。ヒリヒリとした切実さとエネルギーを感じるところがいい。作者にとっての生とは、常識に頼ることの出来ない、生やさしくはないものなのだろう。それでも作者は今日という現実に蹴りを入れられるだけの勇気と脚力を持っているし、明日という未来をでっち上げることができるだけの才覚と空想力がある。常識からはみ出すことにはリスクも付きまとう。作者の賭けが成功すること願う。
 
 
 
人生では底辺
けれども
五行歌では
少し上を
目ざしたい

 

 MOBU
57p.
 
 一行目の現状認識が潔いほどシビアで、清々しくさえある。私自身も五行歌を書き始めたときは本気で「今は人生のドン底で、何処にも出口が無い」と感じ、何かに縋るような思いで歌を書いていたことを思い出した。目ざしたいのが「少し上」というところがいじらしくていいと思うが、どうせなら何処までも上を目ざして欲しい。そういう人がたくさん居るほど、未来が明るく、楽しくなると思う。
 
 
 
自分が
だれよりも
苦しい
という錯覚に
恥じ入る

 

 柳沢由美子
77p.
 
 人が陥りやすい錯覚を的確に捉えている。誰しもが身に覚えがあることだろう。苦しいときほど、視野が狭くなり、自分の苦しさばかりが大きく感じられ、他人の苦しみには無頓着になってしまう。だが、ある意味それは自然なことでもある。誰だって自分の苦しみこそが一番リアルに生々しく感じられるからだ。遠い国で戦争や飢餓に苦しむ人のことを慮るのはもちろん大事だが、それよりも「自分は仕事が出来ない」という身近な苦しみの方が遙かに切実な面もあるだろう。それでも作者は、自分がだれよりも苦しいのは錯覚であると言い切り、それを恥じ入るのである。その清廉で生真面目な感性に惹かれた。
 
 
 
思うな
考えるな
動くな
只管打坐
思ったようになる

 

 那田尚史
147p.
 
 とても好きなのだが、評をしようとすると、なかなか一筋縄ではいかないお歌。思うことも、考えることも、動くことさえ放棄して、ひたすら一つのことに打ち込めば、思った通りになるという。雑念、邪念を払うことの大切さを歌っているのだとは思うが、一行目で「思うな」と言っておきながら、五行目で「思ったようになる」と言われると、「思わなかったら、思ったようになりようがない」などとツッコミたくなってしまう。おそらくは一行目の「思うな」は、正確には「余計なことを思うな」ということなのだと思う。集中することの大事さを教えてくれるお歌だと思う。
 
 
 
嫌いを遠ざけ
好きばかりを追いかけ
糖度の高い
未来に
朽ちてゆく

 

 甘雨
184p.
 
 後ろ三行の表現に特に惹かれた。どことなく、好きなことを仕事にした(あるいはしようとしている)夢追い人についてのお歌なのかと感じた。自分の得意なこと、好きなことだけして生きてゆくのはとても夢のあることだが、本当にそうやって生きている人はめったにいない。誰だって生活のためには、ある程度、嫌いなこと、やりたくないことをやって生きている。意外とそういう時間こそが、好きなことに向き合える時間の大切さを教えてくれたり、得意なことをもっと研ぎ澄ますためのモチベーションを与えてくれるのかもしれない。「本当に好きなことだけしかやらない」というのは、ある意味、不健康であり、毒でもあるのだろう。
 
 
 
誰だって
スナフキンになりたくて
なりきれないまま
去ってゆく

 

 王生令子
221p.
 
 面白いお歌。前述のお歌とちょっと似通ったところがあるかもしれない。確かに私も子供の頃スナフキンのような生き方に憧れた。風のようにやってきて、憂いを帯びた表情で、楽器を弾いて歌なんぞ歌い、また風のように去っていく。男女問わずカッコいいと思い、「あんなふうに自由気ままに生きてみたい」と憧れてしまうだろう。だが、多くの場合、その憧れを実現するには困難がつきまとう。そうして、巷には「中途半端なスナフキンもどき」が溢れることになる。それが良いことなのか、悪いことなのか、その価値判断までは言及されていない点もこの歌のいいところだと思う。
 
 
 
オリンピック?
興味ないよ
俺、出ないから・・・
こんなおじさんにこそ
メダルを贈りたい

 

 庄田雄二
264p.
 
 言われてみれば確かに、と思わされたお歌。もう来年に迫った東京五輪ではあるが、オリンピック選手ではない限り、所詮は「他人の祭り」なのである。もちろん、ボランティアや観戦という形で参加するのも素晴らしいことと思うが、それよりもお祭り騒ぎに浮かれずに自分自身のやるべきことをしっかり見極めなきゃ駄目だと、このおじさんは思っているのではないか。ちょっと褒めすぎかもしれないが、そう思った。
 
 
 
何拾い
何捨ててきた
右の手よ
握手ができる
友が残りし

 

 鈴木 滋
292p.
 
 たまに見かける、「短歌になっている五行歌」。純粋に短歌として読んでも好きなお歌だ。五行に分けたときの、改行と呼吸もよくマッチしており、五行で見るとさらに良さが際立つような作りになっているように感じる。それなりに人生経験を重ねてこられた方のお歌だと推測する。おそらく作者の利き手である右手にとって、今残っているものが友というのがたまらなくいい。平素で無駄のない表現ながら、想いが充分すぎるくらい伝わってくるところも凄い。
 
 
 
白菜を漬けた
重石は
広辞苑、百科事典、聖書
仕上がりは
哲学の味

 

 中込加代子
314p.
 
 漬け物石の代わりに分厚い本を使ってしまうという意外性が面白い。実景だとしたら、なかなか豪気な性格の持ち主だと思う。特に聖書を漬け物石代わりに使うのはなかなか勇気がいる気がするのだが・・・。四、五行目の結びも見事。こんなふうに詠われたら、ちょっと味見してみたくなる。
 
 
 
 
お別れは賑やかに
やけに明るい一群も
やがて
無言で帰る
丸い背(せな)

 

 中村幸江
332p.
 
 お葬式かお通夜の一幕を詠ったお歌だと読ませていただいた。賑やかで明るい一群が、単にそういう気質の方々なのか、故人のことを偲んで意識的にそう振る舞っているのかまでは読み取れないが、そうした方々も帰り道には皆黙って帰っていく、という描写がいい。帰る方々の背中を見送っているのだから、作者は故人の身内ということだろうか。しんみりと心に沁みる秀歌だと思う。
 
 
 
ぷっ と
ふくれて
ふにゃ ふにゃ に
おあとは
あなたしだいよ

 

 ゆらら
338p.
 
 実験的で楽しいお歌。前三行が何のことを指しているのか、色々と想像が膨らむ。作者自身がふくれっ面で怒ったあとに、何かがあって、脱力状態になったのだろうか。あるいは、季節柄(3月号の投稿時期は1月)お正月のお餅を焼いている時の描写かもしれない。後ろ二行が思わせぶりでちょっとエロい感じがするのもまたいい。
 
 
 
(了)
 

第四回文学フリマ岩手に参加してきました!

 こんばんは、ひげっちです。

 6/8~6/9に岩手県盛岡市に行き、6/9の第四回文学フリマ岩手へ参加してきました!

 

 今回同じブースで出展させていただいた、中本速さんと東京駅で待ち合わせし、行き帰りの新幹線をご一緒しました。好きな映画や野球の話など、色々話せて楽しかったですね。中本さんがこの日のために「ガガリオ」という二人用のゲームを買ってきてくれて、これがまた良いゲームで白熱しました。行きは中本さんが、帰りは私が勝ち越しました。

 

盛岡に着いたのは、6/8の16時半くらい。

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盛岡駅だよ

 盛岡駅到着後は、駅直結のさわや書店フェザン店で行われていた文学フリマ岩手・前夜祭の様子をのぞいたあと、「白龍」というお店で、じゃじゃ麺を食べました。「大盛り・キュウリ抜き」を選択しましたが、大盛りと言いつつ特盛りくらいの量があるお店だったので、美味しかったけど、後半はちょっと味が単調で飽きました。

 

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白龍のじゃじゃ麺大盛り・キュウリ抜き

 

 食事後は、中本さんと別れ、宮古五行歌人・よしだ野々さんが取ってくれたホテルへ。想像以上に広くて綺麗な部屋で、びっくりしました。何より感動したのは、テレビでYouTubeが見られたこと。夜はコンビニでビールとおつまみを買い込んで、飲みながら大画面で中村佳穂や米津玄師を聴きつつ、雑誌『五行歌』を読んで過ごしました。我が家か。

 

 明けて文学フリマ岩手の当日。暇すぎたので集合時間よりだいぶ早く会場入りしたら、設営のお手伝いが出来ました。単純作業だったけど、お役に立てたようで良かったです。10時前には中本さんと合流して、せっせとブースの準備。

 

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こんな感じで売ってました

 11時から、文学フリマ岩手が開始。初めての出展でしたが、前になべとびすこさんの歌会でご一緒した国際ヒライデホン空港さんも隣のブースで、五行歌人の唯沢遙さんもお近くのブースで心強かったですね。始まると、どっと人が押し寄せることは無かったものの、常にブースの周りに誰かは通りがかるような、適度な混み具合。最初の1冊が売れたときは背中に電流が走るくらい嬉しかったです。あれはクセになる感覚ですね。目の前で歌集を読んで買ってくれるのも嬉しいし、どこで私の歌集を知ったのか、中身を見ずに「これください」と言ってくれる方もいて、嬉しすぎました。よしだ野々さんをはじめとした、岩手の五行歌人の方々がブースに来てくれたのも大変励みになりました。

 結果的に当初の目標以上の冊数を買ってもらうことができて、大満足な一日でした。自由時間もあったので、他のブースを見て回り、色々と買うことも出来ました。今回入手できたのは以下の本です。

 

・『照らす』中本速

・『スピード』中本速

・『与えるために俺は生まれた』中本速

・『汽笛のふりをしている』平出奔

・『宇宙とわたし/星の細道』チカヨミ

・『傘寿までの半分』チカヨミ

・『ひっつみ本』いわて故郷文芸部ひっつみ

・『ひっつみ本2』いわて故郷文芸部ひっつみ

・『ひっつみ本3』いわて故郷文芸部ひっつみ

・『センター試験の役に立たない倫理問題集』三留七生

・『思い出語り』唯沢遙

 

 閉会後は、新幹線の時間まで余裕があったので、よしだ野々さんの案内で、中本さん、唯沢さんも一緒に、プチ岩手観光。岩山展望台と小岩井農場を案内していただきました。駅前で夕飯もご一緒し、岩手名物の「ひっつみ」をいただきました。上品なお味で大変おいしゅうございました。

 

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はらっこめし と ひっつみ

 22時頃、東京駅に到着し、雨の中を心地よい疲れと共に帰宅。

 

 今回のお誘いをくださった中本さん、色々とお世話になりっぱなしだったよしださん、文学フリマ大先輩の唯沢さんをはじめとして、多くの人にお世話になりました。Twitterでもつぶやきましたが、文学フリマは中毒性がありますね。読者と直にふれ合える機会というのは刺激的です。またどこかの文学フリマに出没したいと考えるのでありました。

 

(了)

 

 

 

第四回文学フリマ岩手に出展します!

 どうも、ひげっちです。

 

 今週末の6/9(日)に、文学フリマ岩手というイベントに出展参加させていただきます。

 

bunfree.net

 

 歌集『だらしのないぬくもり』を文学フリマ特別価格の500円にて販売する予定です。ブース名は「速書店(そくしょてん)」さん、詩人・中本速(なかもとそく)さんとの共同出展となります。

 

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だらぬく販促ボード


 岩手近辺の方、お目にかかるのを楽しみにしております。こういった即売会のようなイベントは初めてなので緊張しておりますが、がんばりたいと思います。

 


【出展概要】
第四回文学フリマ岩手
開催日時:2019年06月09日(日) 11:00〜16:00
入場料:無料
会場:岩手県産業会館(サンビル) 7F大ホール
ブース名:「速書店」
ブース番号:「エ-07」
詳細:

速書店サイト

『だらしのないぬくもり』紹介