ひげっちが好むものごと。

詩歌とボドゲを中心に書きたいことを書きます。

雑誌『五行歌』2019年4月号 お気に入り五行歌

 ひげっちです。久しぶりの更新になりますが、雑誌『五行歌』2019年4月号のお気に入り作品をお届けします。おそらく過去最多、全19首になってしまいました。4月号は本当に名作揃いでした。分量は多いですが、ご覧いただけたら幸いです。

 

 

霞を食べる
仙人を
見習え
刹那を食らう
凡人たち
 
山崎 光
15p.
 
 「凡人たち」に当てはまる心当たりがあり過ぎる身としては、ドキッとさせられたわけだが、この歌の凄いところは、こういったお説教めいたことを詠っているにも関わらず、読み手にまったく言っていいほど、不快な気持ちを抱かせない点。むしろ読んでいて、ある種の清々しささえ感じさせるから不思議だ。実はこういった「偉そうな歌・上から目線の歌」というのは難しい。一歩間違えると、お説教臭さが鼻につく歌になってしまいがちだからだ。これはあくまで想像だが、この歌は今を生きる人々への警鐘であると同時に、作者自身の自戒の念も込められているのではないか。作者の歌を作る際の「姿勢の良さ」が感じられるから、伝えたい想いがすっと読み手に届く。これは間違いなく才能のなせる業だ。
 
 
 
八方塞がりの
壁が崩れたのは
最後は死ねばいいんだ
と 立ち上がった

 

酒井映子
20p.
 
 どこにも出口が見当たらないような状況の中で、苦悶の末、生への執着さえも手放したことで、状況を打破したという経験が力強い筆致で描かれている。人間、気持ちが弱気になり、保身や体裁を気にしていると堂々巡りに陥りがちだが、文字通り「死んだ気」になって物事に当たれば、望み通りとはいかないまでも、道が開けることが多いと思う。筆者にも似たような経験があるので、共感するとともに、勇気を与えてもらえるお歌だ。五行目が一文字だけになっているのも巧みで、どん底から立ち上がったまさにその瞬間にフォーカスが当たるとともに、歌全体がグッと締まる効果を生んでいると思う。
 
 
 
ママとギクシャクし始めた
女児10歳
よしよし
議論が
対等に近づいたってことだ

 

兼子利英子
38p.
 
 作者は女児の祖母だろうか。女児の成長を温かく見守っている視点に惹かれた。10歳ともなれば、そろそろ自我が芽生えてきて、いっちょ前のことを言い始めるころ。思春期の入り口と言ってもいい。色々と難しくなってくる子育ての一場面を上手に捉えていると思う。3行目の「よしよし」が包容力があって素敵。作者のような存在が居ることは、きっとママにとっても、女児にとっても、ありがたいことなのではないだろうか。
 
 
 
たしなみを
忘れない人の
胸の奥には
想うひとが
きっといる

 

吉田節子
149p.
 
 そうなのだ。胸の奥に想うひとがいる人は、めったなことはしない。大切なひとを悲しませたくはないから。大いに共感する一方、「想うひとがいない人」についても想いを馳せた。想像を絶するような恐ろしいことをしてしまう人は、もしかしたら、「誰かがいるべき胸の奥」が空っぽだったのかもしれない。でも、人は一人では産まれてこれないし、一人では成長できない以上、そういった人もまた、誰かの「想いびと」だったのかもしれないと考えると、堪らない気持ちになる。想うことは無力かもしれないし、想い返されることを期待してはいけない。それでも自分自身を保つために、誰かのことを想う。そういう生き方はとても尊いと思う。
 
 
 
植える前に
芽を出す球根
寒さを教えなければ
花は
咲かない

 

かおる
152p.
 
 球根のお歌だが、人間も同じなのかもしれないと感じた。最近自分が感じていたこととリンクしていたので、見逃せないお歌だった。球根にとっての寒さは、人間にとっては挫折や苦労ということになるだろうか。そうしたものを経験し、乗り越えた人間はやはり強い。だからと言って、すすんで挫折や苦労を味わえ、とは言えないが、一生そういったものとは無縁であることが、本当に幸せな人生と言えるのかどうか。色々と考えさせられた。
 
 
 
けっして
本物ではなかったのに
一番本物らしかった
初恋という

 

三隅美奈子
159p.
 
 本物の恋というものがどういうものか、未だに勉強不足でよく分かっていない筆者としては、作者に「本物の恋」について聞いてみたい気持ちになるが、そんなことはさておき、この歌にはある種の真理があるように感じた。初恋には、不器用、一途、ひたむき、といったイメージがある。そして、たいていの場合、成就しないことが多いように思う(※個人の感想です)。筆者は最近誕生日が来て、不惑を迎えたが、正直この歳になっても恋というのは「わけがわからない」ものだ。そのわけのわからないものに、勇気を持って体ごと飛び込んでいく姿勢こそが、初恋を本物らしく感じてしまう原因ではないかと思う。
 
 
 
いつの間にか
世界地図から
消えてしまった
事なかれ主義の

 

鈴木理夫
160p.
 
 今の日本の国としての有り様を痛烈に皮肉っていて、このままでは日本が消滅してしまうよ、と警鐘を鳴らすお歌であろうか。国というのはつまるところ、領土とそこに住む個人の集合から成るものであるから、事なかれ主義の国というのは、事なかれ主義の人々の集合ということになろう。大多数の日本人は揉め事を嫌い、平和を愛する国民性を持っていると信じているが、混迷する世界情勢の中、かつてのように受け身でいるだけでは平和は守れなくなってきていることを肌感覚で感じる。かといって、どう行動するのが良いのか、と問われれば、その答えは簡単ではない。自分の立場を明確にすると、他者との分断を生む。どうかこのお歌の憂いが杞憂に終わり、事なかれ主義の国々が世界中に増えればいいと、平和ボケの筆者は思う。
 
 
 
聴きながら皆
同じ顔 を思い浮かべてる
ハラスメント講習
ご当人を
除いて

 

明槻陽子
162p.
 
 現代的なテーマを痛快に詠まれていて惹かれた。ご当人という言葉のチョイスが絶妙。何処の職場にもお一人くらいは「ご当人」のような方がいらっしゃるであろう。ハラスメント講習を受けているご当人の心持ちやいかに。「自分には関係ない」と聞き流しているのか、多少は思うところがあって反省しているのか、はたまた別の誰かの顔を思い浮かべているのか。ハラスメントとは、大人の世界の「いじめ」であろう。ハラスメント対策においては、多くの場合、加害者に注意を促すという傾向にある。一方、話は少し変わるが、子供の世界のいじめにおいては、未だに「いじめられる側に問題がある」「もっと強くならないといけない」などと、被害者に責任があるかのような物言いがまかり通っているように思う。子供の世界においても、はっきりといじめの加害者に注意を促すようになって欲しい。
 
 
 
幻想を
常食する
種族に
生まれついた
というけだるい呪い

 

南野薔子
178p.
 
 なかなか解釈に迷うお歌だが、筆者なりに感じたことを書かせていただく。「幻想を常食する種族」とは、小説、漫画、映画、詩歌などの創作物を好んで読んだり見たりする人間であるということだろうか。そういったタイプの人間として生まれたことは、「けだるい呪い」であるという。筆者も創作物に触れるのは大好きな人間であるが、そういった人種のことを決して美化していないところが、逆に好感が持てる。全体から感じるどこか耽美的な印象も魅力的だ。
 
 
 
ぼくは
とべない鳥だ
みんなや家族は
とべて
ぼくはとべないみんなはとべて

 

明光小学校三年
北本恵太郎
206p.
 
 自分に自信が持てない男の子のお歌だろうか。読んでいて切なくなった。ありきたりは慰めは言いたくないが、どうか、書くことを続けて欲しい。それが五行歌でなくてもいい。作者の気持ちにみんなが気付けるのも、そこから何かを感じ取れるのも、ほんとうの気持ちを書いたらこそ。ほんとうの気持ちを文字にして書けるというのは、いつか作者の力になるはずだ。
 
 
 
決して
忘れているわけではない
言葉にするのが
困難なだけなのだ
戦争は

 

ともこ
231p.
 
 戦争経験者の方々も高齢になり、だんだんと戦争体験を語れる人は少なくなってきている。幼少のころ、夏に親に連れられて戦争体験の話を聞く会に行った覚えがあるが、退屈だし、怖いし、早く帰ってテレビゲームがしたいと思いながら聞いていた。今にして思えば、大変失礼で勿体ないことをしていた。語り手の方々はそれぞれ辛い思いと向き合って話をしてくれていたのに。辛い体験を言葉にして語れるのは、その体験をある程度自分の中で消化できているからだと思う。戦後74年が経っても、それすらできずに戦争体験を未消化のまま心に抱えている人がたくさんいるということだろう。
 
 
 
おばあさんは
散歩中の
保育園児の群れに
孤独を
そっと置いてきます

 

村岡 遊
259p.
 
 なんとも言えない余韻を残すお歌。歌の主体のおばあさんは、おそらく作者のことだと読ませていただいた。作者は、お散歩中の園児たちと遭遇し、そっと孤独を置いていくという。これは、楽しそうにお散歩している園児たちに、おそらくは孤独を体現しているような作者ご自身の姿から何かを感じ取って欲しいという想いが込められているのではないかと思った。しかし、相手は園児たちであることから、そもそも「孤独」がどんなものであるのか分からない子もいることだろう。ゆえに、この想いはさほど切実ではなく、「君たちにはまだわからないだろうけど、こういう孤独なおばあさんもいるのよ」というような、どこか余裕と温かな眼差しが感じられる。この匙加減がたまらなくいい。
 
 
 
ゴールしたいから
スタートに
就くのではない
スタートしたいから
スタートに就くのだ

 

高原郁子
275p.
 
 何かを始めるとき、最初から具体的な到達点を思い描く人もいるだろうが、それはどちらかと言えば少数派だと思う。例えば、歴史に残るようなスポーツ選手がいたとして、その人も最初にそのスポーツを始めたときは、「このスポーツで世界一になるんだ」という思いより、「そのスポーツが楽しくてしょうがない」という純粋な思いの方が強かったのではないか。端的に言えば、衝動は野心に優る、ということを伝えようとしているお歌だと感じた。最初の一歩を踏み出さなければ、何も始まらない。自分のゴールを設定するのは、スタートを切った後でも構わない。何かを始める前にあれこれ皮算用してしまう筆者に喝を入れてくれるお歌だ。
 
 
 
嫌われる
疎まれる
あぁ歪んでいるから
面白がられる
愛される
 
今井幸男
291p.
 
 真ん中の行の「歪んでいる」ということ軸に、とある人達からは嫌われ、疎まれる一方、また別の人達からは面白がられ、愛されるという二面性が詠われている。同じ歪み、言い換えれば「個性」でも、受け止め方は人それぞれということだろう。これは考えてみれば、当たり前のことで、誰かから好かれている人は、同時に同じくらい別の誰かからは嫌われているのが自然なのだろうと思う。それでも人間は欲張りなので、できることなら多くの人に好かれたいと願うもの。いわゆる八方美人な人は、自分の歪みを上手に隠すとともに、自分を好きでいてくれる人を意識的・無意識的に取捨選択しているのだと思う。きっと作者はそういうことはせず、嫌われることを覚悟で自分の歪みをオープンしつつ、誰とでも分け隔てなく付き合う方なのではないか。この潔さに惹かれる。
 
 
 
しあわせを
何かに
たとえ
人に
嫌われよう

 

いわさきくらげ
311p.
 
 シンプルな言葉しか使われていないが、発想が面白く、解釈も難しいお歌だ。しあわせを何かにたとえる、というのはさほど悪い行為とは思えないが、それをすると人に嫌われる、と詠われている。しかも、それを承知で、自分から能動的に人に嫌われようとしているのが面白い。的外れになることを覚悟で、少し突っ込んだ解釈を試みると、しあわせに関するたとえ話をするというのは、おそらくは自分自身がしあわせな状態な時に行う行為だろう。作者自身のしあわせを何かにたとえて話すというのは、失礼だが少しキザな、分かった風な行為であることだろう。人間は妬みっぽい生き物なので、どちらかと言えば他人の幸せより不幸が好きなもの。ゆえに、自分のしあわせを何かにたとえるというのは、そういった人達を敵に回す行為だという自覚があるのだろう。そして、大事なのはそれを自覚した上で、すすんで自分の幸せを何かに喩えようとしている点。一読した時はつかみどころのないお歌だと感じたが、こうして読み込むと、肚の据わった力強いお歌であることがわかる。
 
 
 
よく考えてみると
僕は嘘ばかり
事実は話せても
本心は話せない
自分にすら話せない

 

川越市立高階中学校二年
伊藤雷静
358p.
 
 3、4行目に惹かれた。客観的な事実は話せても、自分の本心は話せないという。作者のことは存じ上げないが、どちらかというと他者とのコミュニケーションの際に、表面を取り繕ってしまい、体裁の良い言葉ばかりを言ってしまうタイプのお方なのかと想像した。会話していても、自分の本心が置き去りになってしまうので、当然それは楽しくないし、ストレスやフラストレーションが溜まってしまう。そういったことを続けているうちに、自分自身でも自分の本心というものが分からなくなってしまう。何とも苦しく、切ないお歌だ。しかし、こういった方は、裏を返せば、空気が読めて、他人を気遣えるやさしい心を持っているのだと思う。どうか、自分のことを卑下せずに、コミュニケーションの中に自分の「ほんとうの気持ち」を少しずつ出せるようになっていただけたら嬉しい。それと同時に、他の誰かの「ほんとうの気持ち」に敬意を忘れないこと。それさえ出来れば、会話というものは楽しく、ストレスが溜まるどころか、むしろストレス解消になることに気が付くはずだ。
 
 
 
人と出会って
成長した人は
別れても
成長出来るはず
がんばれ!

 

中村幸江
368p.
 
 気持ちいいほどの直球!ズバンと心を撃ち抜かれたので、選ばずにはいられなかった。歌のつながりや体裁を無視して、私情が溢れまくっている5行目が最高。進学や就職などの門出に立っている人に向けたエールだろうか。その人の成長を実感し、また、さらなる成長を期待している温かな視点がいい。作者の相手を想う気持ちが十二分に伝わってくる。こんな風に誰かを思えることは幸せなことに違いなく、また、こんな風なエールを送ってもらえる人というのも、幸せな方だと思う。
 
 
 
ドローン
AI
遺伝子操作
蒼い地球は涙袋
幼い女の子一人救えない

 

天野七緖
372p.
 
 スケールが大きく、かつ詩情に溢れ、考えさせられる。とても完成度の高いお歌だと思う。4行目の表現が好きだ。「幼い女の子」が特定の事件の被害者を想定しているのかどうかは分からないが、テクノロジーが進歩する一方で、そういったものの恩恵をまったく受けることなく、絶望的な状況で追い詰められている、か弱い命も多い。テクノロジーは時に人間の心にも影響を与えるものだと思うが、それは果たして良い影響なのかどうか。効率や通り一遍の善悪にばかり固執して、思考停止し、人間性を失う恐れはないか。願わくば、テクノロジーの進歩が、か弱きものを救い、彼らが生きやすくなるような社会であって欲しい。
 
 
 
失敗した
人生であっても
生きることには
なんの
支障もない

 

会沢光子
384p.
 
 誰だって失敗よりかは成功した人生を歩みたいもの。しかしながら、挫折や躓きと無縁で、何もかもが順風満帆である人生などそうそう送れるものではない。誰だって大小の差はあれど、失敗を経て成長してゆく。そんな人生を真っ向から肯定してくれている点がいい。一度も転んだことがない人より、転んでから起き上がった人の方が強くさえあると個人的には思う。もちろん、まったく転ばないというのも素晴らしい才能であると思うが、転んだことのない人は、転んで苦しんでいる人の気持ちが本質的に理解できないのではないだろうか。他人の苦しみに共感できるというのは、多くの人が考えているより、ずっと大切な資質ではないかと、最近強く思う。
 
 
 
(了)

雑誌『五行歌』2019年3月号 お気に入り五行歌

 こんばんは、ひげっちです。
 
 どんどん投稿頻度が遅くなっていますが、今さらながら雑誌『五行歌』2019年3月号のお気に入り作品を紹介させていただきます。
 
 
 
クジラが
プランクトンを
吸うように
人を馬鹿にして
生きている
 
山崎 光
14p.
 
 一読して、すっかり惚れ込んでしまったお歌。まず、自分自身への平静でシニカルな批評眼が感じられるところがいい。次に、クジラの比喩が実に効果的だ。後半二行は割と過激なことを詠っているのだが、クジラの持つ雄大さやスケールの大きさといったイメージのおかげで、その表現があまり嫌味に感じられないところが巧み。クジラのような存在になら馬鹿にされるのも仕方ないかな、と許容してしまいそうになる。クジラがプランクトンを摂取するときは異物や海水ごといっぺんに呑み込む。作者は人を馬鹿にしていると言いながら、人の良いとこ悪いとこを丸ごと呑み込んで、自らの成長の糧にしてしまうのではないか。
 
 
 
謙虚に生きよう
と 決めたのに
酒を飲めば
いつのまにか
自慢話

 

鮫島龍三郎
20p.
 
 謙虚を心掛けてもなかなか上手くいかない、この人間らしさがいい。自分で自慢話をしているという自覚がある方はそれだけで充分謙虚な部類に入る気もするが、作者はきっと自分自身に厳しいお方なのだろう。酒の席では失敗談の方がウケるし、聞いている人との距離も縮まるとは思うが、私自身は割と自慢話をするのも聞くのも嫌いではない。会う度に毎回同じ自慢話を繰り返されたら、さすがに辟易するだろうが、世の中には色々と凄い人がゴロゴロいるので、「私のここがこんなに凄いんです」という話は、むしろ進んで聞きたい。
 
 
 
今日を 蹴り上げろ
明日を でっち上げろ
生きたけりゃ
常識なんかじゃ
もう 駄目なんだよ

 

 都築直美
46p.
 
 自分自身に喝を入れているような、力強いお歌。ヒリヒリとした切実さとエネルギーを感じるところがいい。作者にとっての生とは、常識に頼ることの出来ない、生やさしくはないものなのだろう。それでも作者は今日という現実に蹴りを入れられるだけの勇気と脚力を持っているし、明日という未来をでっち上げることができるだけの才覚と空想力がある。常識からはみ出すことにはリスクも付きまとう。作者の賭けが成功すること願う。
 
 
 
人生では底辺
けれども
五行歌では
少し上を
目ざしたい

 

 MOBU
57p.
 
 一行目の現状認識が潔いほどシビアで、清々しくさえある。私自身も五行歌を書き始めたときは本気で「今は人生のドン底で、何処にも出口が無い」と感じ、何かに縋るような思いで歌を書いていたことを思い出した。目ざしたいのが「少し上」というところがいじらしくていいと思うが、どうせなら何処までも上を目ざして欲しい。そういう人がたくさん居るほど、未来が明るく、楽しくなると思う。
 
 
 
自分が
だれよりも
苦しい
という錯覚に
恥じ入る

 

 柳沢由美子
77p.
 
 人が陥りやすい錯覚を的確に捉えている。誰しもが身に覚えがあることだろう。苦しいときほど、視野が狭くなり、自分の苦しさばかりが大きく感じられ、他人の苦しみには無頓着になってしまう。だが、ある意味それは自然なことでもある。誰だって自分の苦しみこそが一番リアルに生々しく感じられるからだ。遠い国で戦争や飢餓に苦しむ人のことを慮るのはもちろん大事だが、それよりも「自分は仕事が出来ない」という身近な苦しみの方が遙かに切実な面もあるだろう。それでも作者は、自分がだれよりも苦しいのは錯覚であると言い切り、それを恥じ入るのである。その清廉で生真面目な感性に惹かれた。
 
 
 
思うな
考えるな
動くな
只管打坐
思ったようになる

 

 那田尚史
147p.
 
 とても好きなのだが、評をしようとすると、なかなか一筋縄ではいかないお歌。思うことも、考えることも、動くことさえ放棄して、ひたすら一つのことに打ち込めば、思った通りになるという。雑念、邪念を払うことの大切さを歌っているのだとは思うが、一行目で「思うな」と言っておきながら、五行目で「思ったようになる」と言われると、「思わなかったら、思ったようになりようがない」などとツッコミたくなってしまう。おそらくは一行目の「思うな」は、正確には「余計なことを思うな」ということなのだと思う。集中することの大事さを教えてくれるお歌だと思う。
 
 
 
嫌いを遠ざけ
好きばかりを追いかけ
糖度の高い
未来に
朽ちてゆく

 

 甘雨
184p.
 
 後ろ三行の表現に特に惹かれた。どことなく、好きなことを仕事にした(あるいはしようとしている)夢追い人についてのお歌なのかと感じた。自分の得意なこと、好きなことだけして生きてゆくのはとても夢のあることだが、本当にそうやって生きている人はめったにいない。誰だって生活のためには、ある程度、嫌いなこと、やりたくないことをやって生きている。意外とそういう時間こそが、好きなことに向き合える時間の大切さを教えてくれたり、得意なことをもっと研ぎ澄ますためのモチベーションを与えてくれるのかもしれない。「本当に好きなことだけしかやらない」というのは、ある意味、不健康であり、毒でもあるのだろう。
 
 
 
誰だって
スナフキンになりたくて
なりきれないまま
去ってゆく

 

 王生令子
221p.
 
 面白いお歌。前述のお歌とちょっと似通ったところがあるかもしれない。確かに私も子供の頃スナフキンのような生き方に憧れた。風のようにやってきて、憂いを帯びた表情で、楽器を弾いて歌なんぞ歌い、また風のように去っていく。男女問わずカッコいいと思い、「あんなふうに自由気ままに生きてみたい」と憧れてしまうだろう。だが、多くの場合、その憧れを実現するには困難がつきまとう。そうして、巷には「中途半端なスナフキンもどき」が溢れることになる。それが良いことなのか、悪いことなのか、その価値判断までは言及されていない点もこの歌のいいところだと思う。
 
 
 
オリンピック?
興味ないよ
俺、出ないから・・・
こんなおじさんにこそ
メダルを贈りたい

 

 庄田雄二
264p.
 
 言われてみれば確かに、と思わされたお歌。もう来年に迫った東京五輪ではあるが、オリンピック選手ではない限り、所詮は「他人の祭り」なのである。もちろん、ボランティアや観戦という形で参加するのも素晴らしいことと思うが、それよりもお祭り騒ぎに浮かれずに自分自身のやるべきことをしっかり見極めなきゃ駄目だと、このおじさんは思っているのではないか。ちょっと褒めすぎかもしれないが、そう思った。
 
 
 
何拾い
何捨ててきた
右の手よ
握手ができる
友が残りし

 

 鈴木 滋
292p.
 
 たまに見かける、「短歌になっている五行歌」。純粋に短歌として読んでも好きなお歌だ。五行に分けたときの、改行と呼吸もよくマッチしており、五行で見るとさらに良さが際立つような作りになっているように感じる。それなりに人生経験を重ねてこられた方のお歌だと推測する。おそらく作者の利き手である右手にとって、今残っているものが友というのがたまらなくいい。平素で無駄のない表現ながら、想いが充分すぎるくらい伝わってくるところも凄い。
 
 
 
白菜を漬けた
重石は
広辞苑、百科事典、聖書
仕上がりは
哲学の味

 

 中込加代子
314p.
 
 漬け物石の代わりに分厚い本を使ってしまうという意外性が面白い。実景だとしたら、なかなか豪気な性格の持ち主だと思う。特に聖書を漬け物石代わりに使うのはなかなか勇気がいる気がするのだが・・・。四、五行目の結びも見事。こんなふうに詠われたら、ちょっと味見してみたくなる。
 
 
 
 
お別れは賑やかに
やけに明るい一群も
やがて
無言で帰る
丸い背(せな)

 

 中村幸江
332p.
 
 お葬式かお通夜の一幕を詠ったお歌だと読ませていただいた。賑やかで明るい一群が、単にそういう気質の方々なのか、故人のことを偲んで意識的にそう振る舞っているのかまでは読み取れないが、そうした方々も帰り道には皆黙って帰っていく、という描写がいい。帰る方々の背中を見送っているのだから、作者は故人の身内ということだろうか。しんみりと心に沁みる秀歌だと思う。
 
 
 
ぷっ と
ふくれて
ふにゃ ふにゃ に
おあとは
あなたしだいよ

 

 ゆらら
338p.
 
 実験的で楽しいお歌。前三行が何のことを指しているのか、色々と想像が膨らむ。作者自身がふくれっ面で怒ったあとに、何かがあって、脱力状態になったのだろうか。あるいは、季節柄(3月号の投稿時期は1月)お正月のお餅を焼いている時の描写かもしれない。後ろ二行が思わせぶりでちょっとエロい感じがするのもまたいい。
 
 
 
(了)
 

第四回文学フリマ岩手に参加してきました!

 こんばんは、ひげっちです。

 6/8~6/9に岩手県盛岡市に行き、6/9の第四回文学フリマ岩手へ参加してきました!

 

 今回同じブースで出展させていただいた、中本速さんと東京駅で待ち合わせし、行き帰りの新幹線をご一緒しました。好きな映画や野球の話など、色々話せて楽しかったですね。中本さんがこの日のために「ガガリオ」という二人用のゲームを買ってきてくれて、これがまた良いゲームで白熱しました。行きは中本さんが、帰りは私が勝ち越しました。

 

盛岡に着いたのは、6/8の16時半くらい。

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盛岡駅だよ

 盛岡駅到着後は、駅直結のさわや書店フェザン店で行われていた文学フリマ岩手・前夜祭の様子をのぞいたあと、「白龍」というお店で、じゃじゃ麺を食べました。「大盛り・キュウリ抜き」を選択しましたが、大盛りと言いつつ特盛りくらいの量があるお店だったので、美味しかったけど、後半はちょっと味が単調で飽きました。

 

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白龍のじゃじゃ麺大盛り・キュウリ抜き

 

 食事後は、中本さんと別れ、宮古五行歌人・よしだ野々さんが取ってくれたホテルへ。想像以上に広くて綺麗な部屋で、びっくりしました。何より感動したのは、テレビでYouTubeが見られたこと。夜はコンビニでビールとおつまみを買い込んで、飲みながら大画面で中村佳穂や米津玄師を聴きつつ、雑誌『五行歌』を読んで過ごしました。我が家か。

 

 明けて文学フリマ岩手の当日。暇すぎたので集合時間よりだいぶ早く会場入りしたら、設営のお手伝いが出来ました。単純作業だったけど、お役に立てたようで良かったです。10時前には中本さんと合流して、せっせとブースの準備。

 

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こんな感じで売ってました

 11時から、文学フリマ岩手が開始。初めての出展でしたが、前になべとびすこさんの歌会でご一緒した国際ヒライデホン空港さんも隣のブースで、五行歌人の唯沢遙さんもお近くのブースで心強かったですね。始まると、どっと人が押し寄せることは無かったものの、常にブースの周りに誰かは通りがかるような、適度な混み具合。最初の1冊が売れたときは背中に電流が走るくらい嬉しかったです。あれはクセになる感覚ですね。目の前で歌集を読んで買ってくれるのも嬉しいし、どこで私の歌集を知ったのか、中身を見ずに「これください」と言ってくれる方もいて、嬉しすぎました。よしだ野々さんをはじめとした、岩手の五行歌人の方々がブースに来てくれたのも大変励みになりました。

 結果的に当初の目標以上の冊数を買ってもらうことができて、大満足な一日でした。自由時間もあったので、他のブースを見て回り、色々と買うことも出来ました。今回入手できたのは以下の本です。

 

・『照らす』中本速

・『スピード』中本速

・『与えるために俺は生まれた』中本速

・『汽笛のふりをしている』平出奔

・『宇宙とわたし/星の細道』チカヨミ

・『傘寿までの半分』チカヨミ

・『ひっつみ本』いわて故郷文芸部ひっつみ

・『ひっつみ本2』いわて故郷文芸部ひっつみ

・『ひっつみ本3』いわて故郷文芸部ひっつみ

・『センター試験の役に立たない倫理問題集』三留七生

・『思い出語り』唯沢遙

 

 閉会後は、新幹線の時間まで余裕があったので、よしだ野々さんの案内で、中本さん、唯沢さんも一緒に、プチ岩手観光。岩山展望台と小岩井農場を案内していただきました。駅前で夕飯もご一緒し、岩手名物の「ひっつみ」をいただきました。上品なお味で大変おいしゅうございました。

 

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はらっこめし と ひっつみ

 22時頃、東京駅に到着し、雨の中を心地よい疲れと共に帰宅。

 

 今回のお誘いをくださった中本さん、色々とお世話になりっぱなしだったよしださん、文学フリマ大先輩の唯沢さんをはじめとして、多くの人にお世話になりました。Twitterでもつぶやきましたが、文学フリマは中毒性がありますね。読者と直にふれ合える機会というのは刺激的です。またどこかの文学フリマに出没したいと考えるのでありました。

 

(了)

 

 

 

第四回文学フリマ岩手に出展します!

 どうも、ひげっちです。

 

 今週末の6/9(日)に、文学フリマ岩手というイベントに出展参加させていただきます。

 

bunfree.net

 

 歌集『だらしのないぬくもり』を文学フリマ特別価格の500円にて販売する予定です。ブース名は「速書店(そくしょてん)」さん、詩人・中本速(なかもとそく)さんとの共同出展となります。

 

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だらぬく販促ボード


 岩手近辺の方、お目にかかるのを楽しみにしております。こういった即売会のようなイベントは初めてなので緊張しておりますが、がんばりたいと思います。

 


【出展概要】
第四回文学フリマ岩手
開催日時:2019年06月09日(日) 11:00〜16:00
入場料:無料
会場:岩手県産業会館(サンビル) 7F大ホール
ブース名:「速書店」
ブース番号:「エ-07」
詳細:

速書店サイト

『だらしのないぬくもり』紹介

中村佳穂について

 中村佳穂さんという、京都在住のシンガーソングライターがいます。
最近、ひげっちが色んなところで色んな人にお勧めしている方です。

 

nakamurakaho.com

 

 ひげっちがここ10年くらい一番好きなバンドであるGRAPEVINEが今年の3月に対バンしたことで、初めて名前を知ったのですが、どんな方なんだろう?とYouTubeで聴いてみたら、ぶったまげるくらい良かったので、いっぺんにファンになってしまいました。

 

 まずは、私が2019年上半期で一番再生したであろう下記の動画をどうぞ。

 


Kaho Nakamura SING US - Wasureppoi Tenshi / Sono Inochi [live ver]

 

 歌われている2曲とも素晴らしいのですが、特に『そのいのち』の演奏は自分にとって鳥肌モノでした。演奏自体が素晴らしいのはもちろんなのですが、画面越しでもポジティブな空気感がバシバシ伝わってきて、その波動みたいなものの中心にいる中村佳穂さんから目が離せなくなります。歌っているときの彼女は本当にいい顔をしているんですよね。

 

 先日、横浜で行われたGREENROOM FESTIVAL 2019で初めて中村佳穂さんのライブを観ることが出来ました。幸いにもかなり近い距離で観ることが出来たのですが、何というかライブやフェスに通うようになって20年くらい経ちますが、体験したこと無い類いのライブでした。

 

 感覚としては、音楽性は全然違いますが、BRAHMANのライブを始めて観た時に近かったです。BRAHMANTOSHI-LOWさんは、ステージ上で見えない音と必死に闘っているようなステージングをされるのですが、中村佳穂さんのそれは、見えない音とダンスを踊っているようだな、と感じました。

 

 友達に紹介してもらった脇田茜さんの『ライアーバード』という大好きな漫画があるのですが、その主人公のコトちゃんをちょっと連想しました。自分の中に渦巻いているわけの分からないものを吐き出すために音楽をやっているような、音楽をすることで初めて呼吸ができるような、そんな切実さとスリルを感じることの出来るライブでした。

 

www.comic-ryu.jp

 

 こう書くと、まるでライブがヒリヒリしたものだったと思われそうですが、全然そんなことはなく、むしろライブ自体は終始ハッピーなムードに包まれたものでした。中村佳穂さんは歌いながら常にニコニコ客席に笑いかけていましたし、バンドの演奏者も含めて、音を鳴らすのが楽しくてしょうがない、歌を歌うのが楽しくてしょうがない、という人達が真剣に、夢中で、奏でている音楽だと感じました。

 

 「いい演奏をしよう」という気負い衒いも、もちろんあったのでしょうが、驚くほどそういったものを感じさせない、自然体でのびのびとしたステージでした。表現者というのはやはり、自分を表現するときには、これくらい解放されているべき、救われているべきと思いますし、そういう人達の音楽を聴いていると、観ていて嬉しく、気持ちよく、心が洗われるような感覚になるものです。

 

 純粋に『そのいのち』が生で聴けたという嬉しさもあり、大満足なライブでしたし、同じ表現者の端くれとして、「表現者はかくあるべし」というお手本のようなものを見せてもらったライブだったので、きっとまた彼女のライブに足を運ぶことになると思います。

 

 というわけで、中村佳穂さん、超オススメです!

 

 

(了)

雑誌『五行歌』2019年2月号 お気に入り五行歌

どうも、ひげっちです。
 
1月号とずいぶんと間が空いてしまいましたが、
五行歌2月号のお気に入り五行歌をご紹介致します。
 
 
仏間と玄関に
花が活けてあれば◎
リビングだけなら○
萎れていたら×
母の体調の目安となる
 
倉本美穂子
39p.
 
 一緒に住んではいない、病気がちなお母様のお宅を訪問したときのお歌だろう。お母様は花が大好きなのか、家のあちこちに花を活けているご様子。その花の活けてある場所と、花の鮮度がお母様の体調のバロメーターとなっているとの着眼点が面白い。こういう些細なところに気が付くのも、作者がお母様のお宅に行く時間を大切にして、小さな変化も見逃すまいと目配りをしているからだろう。母思いの作者のお人柄が伝わる、素敵なお歌だ。
 
 
心ひらけば
解りあえる
そんな幻想が
生み出す
かなしい諍い
 
神島宏子
76p.
 
 人は皆違う。当たり前だが、本当に人は皆違う。心をひらいて解りあえるのは、たいてい気の合う人間同士の場合だけで、そうではない場合は、心をひらくことで、むしろお互いの立場や意見の違いが鮮明になる場合が多い。時にはこの歌のように諍いにまでなってしまうケースもあるだろう。でも、諍いになったとしても、心をひらいて自分の意見をぶつけ合うことは決して無意味ではないように思う。私にはこのお歌は悲しいだけのお歌とは思えない。諍いの後に、相互理解が待っていることも有るに違いない。双方がやわらない心を持ってさえいれば。
 
 
すでに
戦前かも知れない
平成の世は
かくのごとく
終わらんとしている

 

深見 犇
89p.
 
 平成も終わりに近付いているが、時代は閉塞感を増しているように思う。どの国のどのリーダーも、語るのは自国の利益を如何に確保するかということばかり。テロや銃の乱射事件も頻繁に起きすぎて、もはや感覚が麻痺している。私達は時代にゆっくりと狂わされているのかもしれない。平成は少なくとも日本の国土が戦場になることはなかった時代として終わりそうであるが、次の時代もそれを継続していくために、自分は何が出来るのか。そんなことを考えさせられたお歌。
 
 
捨てるのではなく
放つ
時が来たらきっと
かたちを変えて
現れるだろう

 

コバライチ*キコ
184p.
 
 解説するのが難しいが、理屈抜きに感覚として、とても好きなお歌。放つ、としたのは素直に読めば、自分のお気持ちのことか。自分が囚われていた気持ちや感情から自由になり、距離と時間をおくことで、その気持ちや感情との関係性も変わってくるということだろうか。作者のお歌はいつも凛とした清々しさがあって惹かれてしまう。
 
 
寒風の中
赤くなれないトマトを
かじってみた
悪い夢が詰まったような
苦い味

 

野田 凛
187p.
 
 冬のトマトは見た目が悪い、値段が高い、味がまずい、と三拍子揃っていると思うが、それでもお店に並ぶトマトは赤く熟している気がするので、1~2行目から察するに、家庭菜園で作ったトマトの歌のように思う。4行目の表現が斬新で魅力的。トマトが美味しくなる季節が待ち遠しくなるお歌。
 
 
歪んだ世界に
歪んだ自分を置けば
まっとうな人間に
見えるという
テクニック

 

王生令子
188p.
 
 これは実は多くの人が知らず知らずのうちに駆使しているテクニックではないか。世界も自分も歪んでいるくらいが健全であると考えているので、まっとうに見える人の正体というのは、歪み具合がたまたまその世界にマッチしているだけ、というものなのかもしれない。世界がまっとうだと考えている人も、自分がまっとうだと考えている人も、どちらも同じようにたちが悪いのかもしれない。そんなことを考えさせられたお歌。
 
 
自分の至らなさを
認める 嗤う 落ち込む
そこからだ
何かが
回り始めるのは

 

富士江
191p.
 
 ものすごく共感を覚えるお歌。二行目の「嗤う」がいい。自分の未熟さ、どうしようもなさを、認めるだけでなく、嘲笑する姿勢。ここに惹かれた。嘲笑できるというのは、自分を客観視できているということであり、自分を俯瞰で見ているような、ある種の別人格のようなものがあるということだろう。そういう人はきっと追い込まれてからでも粘り強い。自分の至らなさを心底思い知った後で、前に進もうとする意志を感じる力強いお歌だ。
 
 
ジャージの上下
口から出たのは
ジョージのジャーゲ
それだけで
一日が明るい

 

はる
214p.
 
 ささいな言い間違いであるが、「あるある」と共感してしまう。きっとこの言い間違いから、笑いが生まれて楽しい気分になられたのだろう。しかし作者は、ちょっとその場が明るくなるだけならいざ知らず、五行目で「一日が明るい」とまで書いている。これは、よほど普段からハッピーで笑いの絶えない生活をされているのか、逆にささいな笑いを繰り返し反芻して味わう必要があるくらい、シビアな現状に置かれている方なのかもしれない、と考えた。願わくば、前者であって欲しいが、果たして。
 
 
かけ蕎麦が
食べたい
好きな人のことを
想って
力の限り泣いたら

 

河辺ちとせ
249p.
 
 後ろ三行から推測するに、作者は失恋あるいは悲しい別離を体験されたのだろうか?食べたくなるのが「かけ蕎麦」であるのが良い。「ラーメン」だとちょっと俗っぽいし、「パスタ」だとちょっとオシャレすぎる。「かけ蕎麦」の庶民感がとても良い味を出しているお歌だと思う。無条件で、この作者を応援したくなる気持ちになる。
 
 
骨壺のしまる瞬間
姿を見せる最後に
骸骨は
微笑んでいたい
微笑んであげたい

 

足立洸龍
332p.
 
 骸骨になってまで、自分を送ってくれる人に対して微笑んでいたい、と思うお気持ちに打たれた。そこには、日頃自分に良くしてくれている人達への感謝があるのだろう。そしておそらく作者は、ご自分が骨壺に入る瞬間というのを、そう遠くない未来として捉えている方のように感じる。四、五行目の表現も巧み。
 
(了)

歌集についての雑記と、これからの話。

 どうも、ひげっちです。

 

 先日、日本現代詩歌文学館というところに、私の歌集を寄贈させていただいたのですが、今日、丁寧な御礼のお手紙が届いて、嬉しい気持ちになりました。早速、文学館のサイトで蔵書検索して、自分の歌集がヒットして(当たり前と言えば当たり前なんですが)、二度嬉しい気持ちになりました。

 

 ひげっちは図書館情報学のしつけを受けてきた人間なので、まず自分の本の目録データがあるという事実にそこそこの興奮を覚えます。さらに、「請求記号」とか「閲覧可」という表示があることでゾクゾクしてしまいます。あんまり書くと変態だと思われるので、この辺でやめておきます。要は、それくらい自分の本が「館」と名の付くところに所蔵されているという事実が嬉しかったのです。

 

 先週の日曜日には、読売新聞の地域欄の読者記者をしている方に、私の歌集について、取材してもらいました。取材を受けるのは、初めての経験でしたが、その方も五行歌人であると同時に、母の友人でもあったので、終始和やかなムードで身の上話をし合うような、ゆるくて楽しい取材でした。記事になるかどうかはわからないそうですが、こういったご縁をいただけるのも、歌集を出したからこそですね。

 

 話は少し変わりますが、私は今まで五行歌や短歌を書くにあたって、勉強っぽいことをまったくと言っていいほど、してきませんでした。例えば入門書を読んだり、古典を学んだりといったようなことです。歌会のプリントや、他の方の歌集は喜んで読んでいましたが、それもあくまで読者として楽しんでいただけで、意識的に表現の手がかりを求めるような読み方ではありませんでした。そんな人間が歌集を出してしまうのですから、厚顔無恥もいいとこですが、私は詩歌の勉強を、半分は意図的に、半分は成り行きで、避けてきたと言ってもいいと思います。

 

 ひとつには、自分の好きな詩歌という趣味を「お勉強」にしてしまいたくない、という気持ちがあったと思います。半端な勉強ではかえって表現の幅が狭まり、窮屈になってしまいそう、という思い込みもありました。もうひとつには、自身が抱えていた「表現欲求」とも言うべきものがパンパンに膨らんでいたため、インプットを受け入れる余地が無かったようにも思います。

 

 歌集というのは、不思議なもので、「本当に自分が書いたのか?」と疑いたくなるほどよく出来ているようにも思えるし、自分の幼さ・拙さばかりが目立つ、浅はかなものにも思えるのです。どちらにせよ、笑っちゃうくらい自分っぽくて、とびきりいとおしい本なのは間違いないのですが。

 

 今、私はなかなか納得のいく歌が書けないモードなのですが、正直な話、この『だらしのないぬくもり』の自己模倣のような歌であれば、これからも書き続けられるだろうな、という確信のようなものはあります。でも私はできれば、それはしたくないです。いつまでも、自分で自分をわくわくさせられるような歌を書いていたい。そのためには、今さらながら、勉強が必要だと気付きました。解消された表現欲求で空いた隙間に、次の弾を込める作業と言っても良いかもしれません。入門書、古典、小説、漫画、映画、もちろん歌集も、意識的で能動的なインプットを心掛けたいです。一時的に、歌がつまらなくなることも、窮屈になることもあるでしょう。でもそれは、次の20年、あるいは40年、楽しく詩歌と向き合っていくために、きっと必要なことなのだと思います。歌集という目に見える形を残せたからこそ、今度は思い切って、今までの自分を改築する段階に入ってゆきたいです。次の歌集のために。